否唯なしに。

否唯なしに。

否唯なしに。

対岸の火事と見えない流矢

 大体、常軌を逸した思考回路の元にもたらされる結果は予測不可能のそれであり、その展望に興味を持つ事は常軌の範疇たり得ると思っている。それを知ることで、ひとりの人間の限定的な価値観と感受性のヴァリエーションは多岐に渡ることとなり、必然的に自身の経験値が増えるからである。

 

 しかしながら、得られる経験値がその渦中に身を投じるに値するかを考えてみると、多くの場合、そうではないパターンが殆どであり、リスクリターンを考えた時に首は突っ込まない方が得策であると考えられる。そのような時には、対岸から当該問題の変遷を観察するのが妥当なライン、となるので、第N者ポジションの確保が非常に重要な課題となろう。

 

 課題という書き方をしたが、それはそんなに難易度の高いものではなく、要は第一者、第二者(以下渦中に在ると考えられうる第n者)に該当するキャラクターに対して、一方的に梯子をかけられる、丁度良い距離を測る事ができればいい。基本的に一度渦中に身を投じた事がある人間であれば、外界との境界線をなんとなくは把握しているものなので、特に大きく意識することもなく、それこそ息を一瞬止めるくらいの気持ちでやってのけるだろう。

 

 こうして対岸の火事は成立する。正確には、「火事の対岸」が構築される。

 

 それで、結局何が言いたいかというと、何が書きたくてこの文章を綴り始めたかというと、常軌の範疇で設定した対岸に、常軌を逸した流矢が飛んできたことがひどく可笑しくて、それを報告したかったわけである。

 

 正直な話をすれば久しぶりに驚いたし、滅茶苦茶にワクワクしたものだ。我々は想定外の事象を目の当たりにした時、溢れんばかりの好奇心で身体が満たされるらしい。このなんともいえないワクワク感が僕は結構好きで、割と生きてるって感覚を味わう事ができる数少ない体験だと思っている。血が騒ぐとか鳥肌が立つとかさしずめそんなところだろうか。

 

 結果的には距離を誤ったばかりに(というかこの場合は気になって望遠鏡覗いたら照射線に気づかれた類の事象だと思っているけれど)、第一者から梯子を外されてしまったので、リスクリターンが合っているかと言われれば微妙なラインではあるが、考えうる範囲で自身への被害は皆無であるから及第点ではなかろうか。強いていえば、今後上がる火の手を近距離で観察出来なくなったのが残念なことくらいだろうが、さして問題ではない。ここまでの経験値の蓄積を考慮すれば、個人的には、充分にリターンの方が大きいと評価して良いと思っている。

 

 もう一つ残念な点をあげるとするならば、飛んできた流矢を投げ返せないことくらいか。宣戦布告を是として、全面戦争に発展させて仕舞えば、それはそれでおもしろい結果がまた見られるであろう。まあ残念ながら、その世界線を辿った時の身辺の損害が計り知れないため、常軌の範疇で思考したら、それが、実現不可能であることくらい、すぐにわかるというものである。

 

 なんで火事の中心に居てただでさえ大変なのに、後先損得考えずに、不特定多数に対して流矢なんか飛ばせるのか、本当にわからない。わからないけれど、元々常軌を逸したそれの延長線上に放たれた流矢であるから、説明を求めてはいけない。わかってはいるけれど、本当に可笑しくて笑ってしまう。冷静に考えたら、あられもない方向に流矢が飛んで、そこから核ミサイルが返ってくる未来くらい、想像できて良さそうなものだけれど。まあ、それができるのならば、最初から火事の中心に居る現実はありえないのかもしれない。いずれにせよ、真意は計りかねるというものだ。

 

 そのような訳の分からない真意を知りたくて、結局僕は、対岸の火事を鑑賞するわけである。意外と、というか必然的に新しい発見があって面白いというより他ない。今のところ、友人を勧誘できるような代物ではないと思うが、一見の価値はあると踏んで、疑わないままでいる。

 

 今後は以上の教訓を活かして、流矢の存在に注意しながら、対岸の座標の設定をされたい。

 

おわり。

 

P.S. やはり対岸の火事ごっこが出来ないのはつまらない。教訓。