否唯なしに。

否唯なしに。

否唯なしに。

飛翔の代償

 空を翔ぶ鳥は本当に自由なのだろうか。彼らは何を考え、何の為にこの何もない空を翔け、舞っているのだろう。私の頭上を過ぎていく鳥達を目で追う度、意味も、取り留めもない疑問が浮かぶ。何となく、地面に縛り付けられている私達人間なんかよりも、余程自由に世界を駆け巡っているようにも思えるが、果たして鳥は何を考えて今を翔んでいるのだろう。

 

 

・翼を持たぬ者にとって、その重みは理解し得ない

 夢を語る人の背中には、聴き手には視えない翼が生えている。偶に語り手と波長が合うと、その片鱗が透けて視える事がある。そんな時は自然と少し口角が緩んで、声にならない昂りが心から漏れ出す。その生に意味を見出しながら羽ばたく生き物の美しさは筆舌に尽くしがたい。その意味に触れる瞬間もまた、生を実感する瞬間であって、だからこそ、対面に座る人の背中に透明な翼の一部がキラりと輝く瞬間は酷く心地が良い。

 久しぶりに旧友と再会した。旧友はきっと、以前頻繁に私と会っていた時には曖昧だった、何か目標に向かってその足を一歩、また一歩と前へ進めているのだという事だけ、何となく分かった。彼の背中に翼は視えなかった。でも、彼の語る言葉の端々から、その昔、背中に秘めていた翼の片鱗が垣間視えて、とても懐かしい気持ちになった。同時に、淋しいという気持ちを覚えた。かけがえのない親友が何処か遠くへ翔んでいってしまうかのような感覚。確かに今の私にとって、彼が背負っている翼の重みは理解し得ないのだと思った。(大事なのは、理解できないのではなくて、理解し得ないという事だ。)

 

・翼を失くした人、翼を失くした意味

 家庭に縛られて居ないという意味において、私をはじめ、独り身の人間は自由であると言える。そのような観点において言えば、当然、自由を失くした人、即ち翼を失った人も少なからず存在する。人によってルーツと価値観の違いに差異はあれど、歳を喰って結婚に纏わる話題が酒の肴になる事は少なくないだろう。結婚する事は一般的にはめでたい事だろうと思うが、私にとって羨望の対象であった人間(勿論、親密度に関わらず全ての友人がそれに含まれる)が、その世界に一つだけの翼を失くしてしまうのだと想うと、惜しくて堪らない。

 翼を失くすという事は、勿論、それに翼を失くすだけの価値があるという事だ。もう少し主体的に言い換えるならば、翼を失くしてもいいと思えるような理由がそこにあるという事だ。ある種他人の幸せに対する妬み嫉みとは別に、それについて何か物寂しさを感じてしまうのは、まだまだ私の心が未熟だからなのだろう。しかしながら私は、もっと貴方達と夢を語って居たかった。その翼がキラりと光る瞬間を私はもう見られないのだ。そう考えると、私はいつか翼を失くすという事についてどうも忌避的な考え方が心の底から拭えない。


・鳩は翼の重みを知っている

 平和の象徴とされる鳩が羽ばたくシーンは、画角の中で見ることの方が多いのではないだろうか。私にとって馴染み深い鳩達は街路樹の下で人間と足並みを揃えて健気に歩き回っている姿だ。首を振りながら歩く鳩の何と愛おしい事か。私は無性に鳩の事が大好きである。

 最近、翼の重みについて考えさせられる度に、鳩は自分の背中の翼の重みについて理解しているのだという錯覚に囚われるようになった。(自身の身体の一部なのだから科学的には全く以て当たり前の事であるが。)彼らは羽ばたく事の代償を分かっていて、普段、人間と共に地面を歩いていると考えたら、極度の親近感を覚えられないだろうか?

 昔から鳩は好きだったが、目標が何もなくて生きるのがつまらなかった時期に鳩の事を好きだった理由は、何も考えていないような、感覚の鈍さに惹かれたからだった。今、街で歩いている鳩を見ると、本当は翔べるのに翔ばないそれに、何か意味があるような気がして、何を考えながら地に足をつけて歩いているのか尋ねたくなる。

 かの夢野久作も、代名詞とも言える著作の巻頭で「胎児よ胎児よなぜ躍る/母親の心がわかっておそろしいのか」と詠んでいる。私達にとって胎児に心(魂)がある事は理解できど、胎児の心が何を想うかはわからない。しかしながら胎児には母親の心がわかるのかもしれないという、アンチテーゼを含んだ想像が織り込まれたこの唄はやはり秀逸である。私達の隣を歩く鳩も、私達が翔べない理由(歩かざるを得ない理由)を知っているのかもしれない。

 

・それでも私は、翼が欲しい

 この春、借金をして東京に越してきた。生活に変化が欲しかったから。夢を語る事は誰にだってできる。それを叶える事も。私にとって「夢」が何なのかは分からない。今、やりたい事も正直分からない。でも、何か形として目に見える人生進捗が欲しかった。親しい友人がいつの間にか翔び立っていく前に、もっと夢について語りたくなった。現実的に言えば時期尚早ではあったけれど、少し無理をして引越をした。

 新生活の先駆けに、暇を持て余した5月を使って少し絵を描いた。モチーフに選んだのはタロットカードの死神。このカードの逆位置には「逆転」や「現状の打破」という解釈が存在する。逆境と奇手(定石の対義)を好む私にとって、大分シンパシーのある解釈カードだ。タロットカードに纏わる占いをやった事はないけれど、何かの縁でそれを知ってから印象に残って私のルーツの一部となっている。

 この段落は蛇足という名の余談だが、代わりの利かない悪友(今年で7年目の付き合いになる。)から、しばしば私が奇手を選択する度に「ひとでなし」だと揶揄される事がある。本来的な意味についてのあれこれは置いておいて、「ひとでなし」であることは、私の翼の原料の源のような物であって、きっと私が社会の歯車に成り下がって「ひと」になってしまった時、私は未来永劫、翼を失ってしまうだろうと思っている。今回は自戒の意を込めて、死神の逆位置の、さらに逆を描いた。バカのひとつ覚えみたいに奇手を選択し続ける事が美しい訳ではないが、常に定石を疑って自分にしか選択できない手を見出して行きたい。きっとそれが、私の翼のアイデンティティだから。

 


 いつも文章を描くときは外の景色がよく見えるカフェか公園で描くのだけれど、今日は新しい生活拠点の近くにある、これから私のホームになるカフェで、人と共に歩道を闊歩する鳩を見ながら描いた。東京の鳩はガタイが良くて、デカい夢をその翼に宿している気がする。

 

f:id:mieiyoutube:20230530154028j:image

 

いつもとちょっと違う作風は、いつの間にか翔びたっていった旧友を想って(に倣って)。

 

2023.5.30. 再出発に際して。