否唯なしに。

否唯なしに。

否唯なしに。

「仮面」

 駅に、降り立った。それは本当に長い旅路の終着点で、そして、彼にとって特別な場所だった。

 風が、吹き立った。スンと彼の頬を撫ぜて、そして、雑踏の奥深くへと消えて行ってしまった。


 「ああ、この風。」


 彼は思わず呟く。呟いて、その風を絡めとるかのように、右手をくるりと回してみる。そう、この風に違いなかった。一年もの間、この風を浴びたくて浴びたくて仕方がなかった。もう一度、この風の流れをあじわいたいと思って、左手を伸ばしたところで、背後で沈黙を守っていた電車が機械的な合図音と共にガタガタと動き出す。風はまた、形を変えて彼の全身を通り過ぎていった。もうすぐ、陽が落ちる。


 ここにまた来れたことが嬉しくて口元が緩みそうになるのを必死に堪えながら、改札口の方向へゆっくりと足を動かす。こんなしがない郊外のホームの上でにやにやと笑っている奴がいたら、それは明らかにおかしいやつだろう。側から見たらただの変人だ。いや、マスクを着用しているから変態仮面かもしれない。そんなことを考えながら、コートのポケットから携帯を取り出す。と、その時、後ろから大きな何かがドンとぶつかってきた。腰のあたりに鈍い衝撃が走る。


「さーせんっ!」


パッと振り返ると、制服を着崩した中学生らしき少年が頭をヒュンと下げ、ぶつかってしまったことを詫びているようだった。大丈夫だよ、といった風に左手をあげて相槌を打つと、少年はもっと後ろの方で戯れていた少年達の輪の中に戻っていった。マスクをしていたので顔は良く見えなかったが、どこかあどけない雰囲気が目の奥から感じられた。


「気ぃつけなわ、他の人にメーワクかかるほどはしゃいだらあかんで、」


少年達の輪の内の一人が、ぶつかった少年に対して揶揄うとも嗜めるともよくわからないテンションで、声をかけている。あまり意識していなかったが、同じ電車に乗っていた少年達が騒ぎ、ふざけあっていた最中にはずみでぶつかってしまったらしい。周りの少年達がからからと笑っている様子を聴きながら察するに、どうやら軽いノリのようなものだったのだろう。そう思いながら、すっと、少年達のことを意識の中から逃がす。


 そうして彼は、取り出そうとしていた携帯電話をそそくさとポケットから出して、目の前に迫ってきた改札の上に乗せる。今夜は快晴、そして微風。星がよく見える。役目を終えた携帯電話をポケットにしまい、そしてそのまま、彼は夕暮れの影の差す方へと誘われていった。


「ふふ。」


 気がついたら彼は笑っていた。そういえば自分も、さっきの少年と同じようにマスクを着けていたのだった。口元が多少緩んだくらいでは、周りの人間から変な目で見られることなどなかっただろう。先程口元を必死に引き締めていた自分が、ひどく可笑しく思えた。半年前に発生した新型感染症ウイルスの蔓延により、今や誰もが外出する時にマスクを着用することが当たり前になっていた。当然、彼にとってもそれは日常的なことで、半年くらい前から外の世界でマスクを着用することは、もうお約束のようなものだった。


 何故急に口元を引き締めようと思ったのだろう。彼は考える。考えて少し歩いて、そういえば口元が緩みそうになったのが久方ぶりだということに気がついた。そういえば去年も同じようにして電車を降りたあと、綻びかけた口元をキュっと結んで改札を抜けたのだった。あれからもう一年が経つ。街の風景も、空の色も、風の速さも、何一つ変わっていなかった。変わったのは行き交う人々全ての顔にマスクが付いていたことくらいだった。それにしてもなんだってこの街は、仮面をいとも簡単にめくってしまうのだろう。彼はまた考える。考えて、また少し歩く。


「風だ。」


 そうだ。風がとても気持ち良かった。なんだろう、ただ心地が良いとか、そういうことじゃない。彼は考え続ける。この風を、ここに吹いている風を、自身の身体がずっとずっと浴びたかったがっていたんだ。それに改めて気がつくと、何故か心が熱く沸るような感覚を覚えて、そんな自分がより一層おもしろいと思えた。


「ふふ。」


ふと気づくと、彼はまた笑っていた。しばらくの間、くつくつと声をたてて笑っていると、目の前で親に手を引かれて歩いていた女の子が、フッと彼の方を振り返っていた。慌てて口元を引き締めようとすると、彼女もまた、へらっと不思議な笑顔をあどけない目でアピールして、すぐに進行方向へと向き直ったのだった。目が笑っていたのがバレたのだろうか。だとすれば、よほど嬉しそうな顔をしていたに違いない。目は口ほどに物を云うとはよく言ったものである。やはりマスクは仮面の代わりにはならないようだった。


「ふふ」


もう一度、声に出して笑ってみる。ああ、なんて心地いいんだろう。こんなに自分の気持ちに正直に笑みを浮かべることができる。この風が吹く街では、この風が吹く街に降り立った今日だけは、彼の背中に自由の翼が生えていた。今この瞬間、それまで擬態して街の一部だった彼の本質は、もはや彼自身のそれでしかなかった。


「ああ、生きているんだなぁ。」


 彼は、そう呟くと今度こそ本当に、夜の底へと消えて行った。仲間の待つ夜の底へと、地に足をつけて、グングンと歩いていった。いつのまにか、影は消えていた。街の灯りだけが、彼を静かに追っていく。

 

弥永唯 ー2020.12.20 (2021.08.12再掲)