否唯なしに。

否唯なしに。

否唯なしに。

INDEX

唯だひとつ 永きに弥る ものがたり

ご高覧頂き誠にありがとうございます。

 

挨拶

2022.06.30 否唯なしに。

2021.07.01 [宣誓]

 

小説

未完              「レゾンデートルの看破」

2023.12.09 「Re:烏の濡れ羽色」

2022.08.15 「烏の濡羽色」

 

ショート・ショート

2022.12.31 「花火の記憶」

2022.08.28 バーガンディーのリボン

2022.04.26 レモンティーが飲みたい時。

2022.04.06 現に掬ふ。

2021.08.31 「関係性損失分光」

2021.08.28 「溺惑的エネルギー」

2021.08.12 「仮面」

 

語り

2024.01.27 比翼鳥の煩悶 第一部「喪失感の真実」

2022.01.24 無能なあの子の処世術 

2021.09.21 ビジネス的共依存という生存戦略のパラドクス

 

ひとりごと

2023.08.31 ゆりかごへ

2023.08.11 描けない世界

2023.07.18 えりざべすの呟きに導かれて

2023.07.14 悲劇の実存と悲劇のヒロインの乖離性について

2023.06.13 許せない人

2023.06.08 満員電車

2023.05.30 飛翔の代償

2023.04.28 Syaka1雑感

2023.01.17 「自分がやった方が早い」の贖罪

2022.11.29 6年前の芸術家に感動させられた話。

2022.11.24 再生のイントロ 

2022.10.15 一瞬で心を奪われたショート・ショート

2022.09.27 サイレントマジョリティ

2022.06.07 罪と大罪

2022.05.18 欠陥であると理解っているのに。

2022.03.31 主旋律と対旋律の邂逅

2022.03.22 冗談という言葉は果たして免罪符たり得るのか。

2022.03.16 24が語る「カフカの変身」と、信じる意味についてとか。

2022.01.28 After you : 世界一キライなあなたの、その先

2022.01.22 下手の横好き

2022.01.14 察せる人

2022.01.05 歌が上手い女が雑談をすると、耳が溶けて困る。

2021.12.29 ポケルスが呼んだ悪友

2021.11.15 誰かをマネジメントできる能力

2021.11.06 人はそれを、概念渇望症と呼ぶ。

2021.09.12 オブラートに包まれたくない彼女

2021.09.04 香りの記憶

2021.08.23 八日目の蝉の哀しみ

2021.08.09 仮想現実にはなぜ雨が降らないのか。

2021.07.31 対岸の火事と見えない流矢

2021.07.18 ひとでなし興行

2021.07.08 愛想の良い女と付き合いたい。

 

メモ

2023.05.01 〔スプラメモ #1〕エリア_スクスロ要点(ステージ別)

2022.12.04 〔SVメモ #1〕*みえいの9世代、はじまる。

2022.01.08 *みえいが選ぶ、ガチ都内宿泊場所ランキング

 

 

  ー 弥永 唯 / Yui Iyanaga / みえい / m¡!

比翼鳥の煩悶 第一部「喪失感の真実」

 暫しの間、私の最近の思考について共に理解を深めて欲しいという、細やかな願望の元に筆を走らせる。

 

 

前戯

愚行を正当化する事は極力避けたい。あくまで偽悪的に解釈した上で、その動因を愛する方が思考として健全だろう。

 言語化というものは麻薬と同じである。それを使った人間に幻を見せ、まるで世界がそういう風にできているかのように感じさせ、断定させ、その本質を感受する行為そのものを阻む。私の都合の良いように世界のインデックスを書き換えて、私の都合の良いようにページを破り捨てて、私の都合の良いように耳を擽(くすぐ)る一節だけを誦(そらん)じる。言語化とはそういう意味合いにおいて、行為者の為に存在する行為でありながらも、本質的には行為者の為にならない行為であると言える。

 従って、私は当該行為について、本文に限っては違った意味を内包させたいと感じ入るところである。私は、私が安心する為にこれを書きたいのではない。私は、私という人間を模る思考の一種を、偏に理解したいのである。その為には、貴君らのようなオーディエンスが必要である。貴君らが存在して初めて、当該行為は唯の自己都合による創作とは異なる、私の趣旨に則った意義を見出す事となるであろう。

導因

憧れという感情の、私にとっての存在意義は実に曖昧である。翻って、それが私の為に存在するという事柄に関しては、実に明瞭である。

 去る2023年12月某日、私は1人の女性が左手薬指にリングを填めているのを見て、喪失感に良く似た感情に脳領域を支配された。チタン味のある自然な発色と華美でない単調なデザインは、そのしなやかな指に良く似合っていて、まるで初めからそこにあったかのように思われた。しかしながら私が知る限りにおいて、彼女の左手薬指が滑らかな金属によってあしらわれているのはそれが初めての事であった。

 彼女との邂逅は半年程前に遡る。私の直属の上席にあたる御方であり、私が満足に仕事ができるようになる迄、非常に丁寧に面倒を見ていただいた事は、未だ記憶に新しい。現況を正しく把握し、問題解決の為の糸口を見出す事に長けており、それを端的に言語化して他者に共有する事も得手であるように見えた。何より、一つ一つの案件に関して、クライアントは勿論、後続対応をする事になるであろう同胞の都合にも配慮し、未来を見据えた再現性の高い対応策を打ち出す姿が印象的で、私が畏敬の念を抱いていた事は言うまでもない。その仕事の仕方が、私にとってどれほど魅力的なものであったか、語り始めれば日が落ちてしまうが(現に、この一文をどうやって一文として纏めあげるか、かなり頭を悩ませたものだが)、ともかく当該文章においては、彼女が私にとって憧憬の的であった事が貴君らに伝われば良い。

 "憧れ"という感情は非常に便利だ。怒りとか哀しみとか愛しさとか、そういう本能的で衝動的な感情に比べると、それを抱く事によるリスクが皆無で、ストレスフリーでコストパフォーマンスが良い(怒りのままに行動してしまっては最善の選択をする事が難しいし、それが生みだしたネガティブな結果について、責任を負わなければならないかもしれないだろう?)。少し抽象的すぎる表現かもしれないが、予防線を張る心理に類する行動のひとつである事は感覚的に理解できると思う。このような視点において、"憧れ"という感情は理性的な人間という生物が、多感で脆弱な己を自衛する為に、便宜的に、ある種建前的に生みだした(確立してきた)感情であると考える事ができる。それは本来的には好意の延長線上に存在する、妬みとか嫉みとか僻みとか、そのような、一般的に下劣で醜悪的であると捉えられる感情によって、自失しないように、そして他者が傷つかないように心身を保護してくれる大切な保険なのである。

 "憧れ"という感情は非常に便利だ。それを良く理解しているからこそ、私はこの感情に対して全幅の信頼を置いているし、使途不明の行き場のない曖昧な感情に対してその名前をつけて、思考する事を放棄しては、その利便性に感服している。このような先行思考に基づいた上で、この文章は、理知的で保守的な、いわば安全神話が謳われてきた"憧れ"という感情を貫通して、"喪失感"という使途不明な感情に私が急襲された事に端を発する。

ここで、私が特に気遣わしいと感じられた点は次の2点である。

  • 便宜上、「喪失感に良く似た感情」と表現したこの感情は、どのような意義を以て存在している感情なのか。
  • 私自身の意思で私を守らせていた作為的な感情を貫通してまで、私という個の内側を「侵略せしめた要因」は何か。

今回はこれらの論点に対して次の4点を切口として、曖昧な思考の明瞭化を図る。

  •  「喪失感に良く似た感情」の正体
  •  「喪失感に良く似た感情」の存在意義(発生要因)
  •  「侵略せしめた要因」の正体
  •  「侵略せしめた要因」に対する私の敗因

以上の論究を元に、最後に本項(導因)に対する私自身の回答を用意する事で、当該行為の幕引きとする。私の中で半年間止まっていた思考の時間が、たった今、再進するのだ。

端緒

それは「喪失感」であって、"虚無"でも"悲嘆"でもない。対象は必ず何かを「喪失」していて、「喪失」したクオンティティと同等のそれを新たに抱えている筈なのだ。

 「喪失感によく似た感情」について自身なりに解釈を採る為に、私は、先ず一般的な「喪失感」というものを理解する事にした。これを最も端的に表すのならば、一般的に「大切な存在を失ったときに覚える空虚な気持ち」とするのが良いようである。要点は、それが「大切な存在を失った」という事象に起因して発生する感情であるという事と、その感情が本来的には"意味や存在価値"を内包し得ないという事、以上2点だ。即ち"喪失感"とは、前提として当人が、当人にとっての「大切な存在」を自覚している状態において発生する可能性のある感情であり、そしてそれは、「大切な存在を失った事に対して、当人が覚える感情に名前がつくまでの間」にのみ、当人の感情領域を揺蕩う、ある種刹那的なそれである事がわかる。

 初めに、要旨を分解して本質の言語化を試みた結果、かなり抽象的な論説となってしまったので、今度はもう少し順序立ててこれの発生と消失について解明してみたい。「喪失感」の発生に先立って「大切な存在の消失」という事象が存在する事はもはや既知の事実であるが、ここでいう「大切な存在」は、文字通り「大切な存在」でなくても構わない。(それが当人にとって「大切」でなくても構わないのに、文面上「大切な」と表現すると誤解を招いてしまう為、一旦この項では「大切な存在」と表現している物事を「X」という文字で代替しよう。)有象無象の物事「N」が「X」たり得る条件は、①当人がある特定の「N」に対して何らかの思考を行っていて、そこに何らかの感情が存在する事と、②①の行為が同一の「N」について恒常的に行われている事、である。即ち、当人がある特定の「N」について、恒常的に何らかの感情を抱えるようになる事で、その「N」は「X」へと昇華する。この"何らかの感情(便宜上、これを「x」と呼称する)"について、それが当人にとって大切であるかどうかはここではそれほど重要でなく、寧ろ些細な内容であっても"それが恒常的に「X」について思考した結果生じたもの"である事が重要であると思われる。これらを総合的に判断すると、初めに「大切な存在の消失」と表現していた事象は、正確には「Xの消失によって生じるxの喪失」であると捉える事ができる。この時、「X」が事実上消失したとしても「x」が急に消失する事はあり得ない。何故ならそれは"恒常的に当人の感情領域の片隅に存在した感情だから"である。しかしながら、そのルーツであった「X」が消失した事によって、「x」の存在価値や意味はこの世から消えて無くなってしまう。結果的に「x」そのものが無意味で無価値な「空虚な気持ち(=φ)」に成り代わってしまうのだ。そうして時が経って、「x」の感覚も覚めやらぬままに、「φ」があった場所へ「Xを失った事に対する感情(=y)」が充てがわれる事になる。素直に考えれば、困惑、不安、恐怖、悲哀、憤怒、罪責、一般的に悲嘆と表現されるそれらが「φ」領域を占める「y」となるケースが多いだろうか。ここまで思考を進めて漸く、喪失感を「大切な存在を失ったときに覚える空虚な気持ち」と表現した意図を理解すると共に、このような「x→ φ →y」という感情の変遷を総称したものが「喪失感」なのであると実感できる。

展開

「似ている」という形容の本質は、それが、対象と明確に異なる存在である事を示唆しているという点である。

 私は未だ、「喪失感によく似た感情」の正体を解き明かす事ができていない。前項である程度、その成立と全体感について言語化を試みられた「喪失感」であるが、私が今回襲われたのは「喪失感によく似た感情」であって、「喪失感」そのものではない。その確たる証拠として、私は何か特定の「X」を失ったわけではない。現実世界で起こったのは「1人の女性が左手薬指にリングを填めていた」という事で、そこに「物理的な」引き算は存在しない。では何故、私はその出来事に対して「喪失感によく似た感情」を覚えたのか。何故「当時の感情の変遷」の様を喪失感によく似ている、と形容したのか。ここまで思考を展開すれば、自ずとその意図は理解できるだろう。それ即ち「当時の感情の変遷」が、喪失感が表す「x→ φ →y」という感情の変遷に類するものであったからだ。やはり私は、未だ正体を掴みきれない何かを必ず「喪失」していて、そして「喪失」したクオンティティと同等のそれを新たに抱えている筈なのだ。

 一体私は、何を喪失したのだろうか。その為には、当該ケースにおける、私にとっての「X」と「x」について、その存在の内容を明らかにしなければならない。(実は、この時点である程度書きたい内容、書かなければいけない内容は決まっているのだが、私自身、それの解像度が低くて、的確に言葉を紡ぐ事が難しく、今、非常に苦しい気持ちである。ともすると、必要のない回り道をしたり、くどい論説になったりするかもしれない。謹んでお詫び申し上げると共にお赦し願いたい。)できる限り単刀直入に行こう。「1人の女性が左手薬指にリングを填めていた」という事象が示唆するのは「結婚」である。「結婚」とは、「婚姻」を定義する最も一般的な呼称であり、その定義範囲は「夫婦間の継続的な性的結合を基礎とした社会的経済的結合で、その間に生まれた子が嫡出子して認められる関係」とされている(広辞苑第七版に基づく)。現代社会(少なくとも今、私が生きている日本社会)において、この関係は唯一無二的であって、同一の人間において複数存在し得ない。即ち、ひとつの可能性として(或いは思考の方向性として)、私が喪失したのは「彼女と婚姻関係を結ぶ権利」であると考える事ができる。しかし、この表現であると「私が既に別な女性と婚姻関係を結んでいるが故に、彼女と婚姻関係を結ぶ事ができない」と捉える事もできてしまう為、「婚姻関係を結ぶ権利」を喪失したのは「私」ではなく「彼女」であるとするのが健全であろう。即ち、実質的に私が喪失したのは「彼女に婚姻関係の対象として選択される可能性」であると、表現し直す事ができる。この「思考の視点移動によって、物事の本質を自身の視点から見た形で解釈する」方法を覚えておいて欲しい。

 ここで改めて「X」と「x」の定義について振り返りたい。ある特定の「N」という物事について、当人が恒常的に何らかの感情を抱えるようになる事で、その「N」は「X」となり、この"何らかの感情"というのが「x」なのであった。故に「彼女に婚姻関係の対象として選択される可能性」が「X」であると仮定するならば、私はそれに対する恒常的な思考と、それに基づく感情を抱いていた事になるが、残念ながらこの仮定に基づく結論は現実の状況とそぐわないように思う。私が「彼女」に対して「憧憬の意」を表していた事を"自覚していた事"は間違いないが、私は明確に「彼女と婚姻関係を結びたい」という事について思考していない。言い換えるならば、"状況証拠的に"喪失が疑われた「彼女に婚姻関係の対象として選択される可能性」は、事実上"私が喪失した事象"である事は確かだが、それについて何らかの恒常的な思考の事実が認められなかった為、"それが私に対して喪失感を発生させ得る事象であった"と結論づけるのは実に不自然だ。それが意味する心延えは「何も喪失してないのに、何かを喪失したと錯覚したもの」か、或いは「何も喪失していないのに、何かを喪失したのと同等の衝撃を受けたもの」か。何れにしても「私は何も喪失していない」事はどうやら確からしい。

 こうして、真面目に順序立てて「喪失感によく似た感情」について思考した結果、予想だにしなかった奇天烈な真相に辿り着いてしまった。私は何も喪失していないというのに、喪失感によく似た感情に急襲されたのだ。私がこれを「喪失感」とせずに「喪失感によく似た感情」としたのは、前提となる発生要因がそもそも異なる、似ても似つかない存在であったからであろう。まさに新時代の喪失感、さしづめ『ネオ・喪失感』とでも呼称できようか。私は何故、この奇想天外な感情『ネオ・喪失感』に襲われるような事態に陥ったのだろうか。その時、私が抱えていた「x」にあたる感情は果たして何なのか、そして「x」があった場所にまもなく満たされる筈の「y」という感情の名称を、今の私は知り得るのだろうか。『ネオ・喪失感』の存在意義を突き止める為、私はさらに先へ、私の思考を進めなければならない。

 

第二部「憧憬の欺瞞」へつづく

 

 弥永唯 ー2024.01.27.

「Re:烏の濡れ羽色」

 何か、違う気がしてきた。男は、走らせていたペンを放って、ついでに目の前の原稿用紙も丸めて屑籠に投擲してしまった。ラジオ代わりにデスクの上で喋らせていたスマートフォンが、例年よりも早い初夏の到来を伝えている。この男の部屋にもそれは例外なく損害を与えているようで、壊れてそのまま放置されているエアコンは、男の額に次から次へと浮かんでくる大粒の汗を、ただ見下ろす事しかできなかった。いつの間にか水道は供給が止まっていて、シャワーを噴射する事もできない。この部屋で男にできる事は、ただひたすらに、ひたむきに、文章を書くことだけだった。書きたいと思った景色を想像して、輪郭を原稿用紙に綴って、インターネットという名の海に放出するだけ。たったそれだけの簡単な作業だというのに、それすらもなんだか、違うのだという気持ちで、デスク傍に無造作に置かれた屑籠は溢れてしまいそうだった。違う、というのは一体どういう気持ちなのだろう。何を基準にして、違うなんて曖昧な表現が脳裏にこびりついて離れないのか、もうそれすらも分からない。結局、何か違うという固定観念に監禁されてしまった今、もう一文字たりとも文章の続きを綴る事は叶わないのだろうという事くらいしか、男には見当がつけられなかった。

 このままいつもの様に不貞寝してやろうか。放られた筆記具宜しく、身体をベッドの上に転がしてスマートフォンを弄ぶ。偏った思想と、何が嘘で何が本当なのか分からないニュースに汚染されたそれは、最近はもう目覚まし時計としての機能しか果たしてくれない。まったくどうして、本当につまらない世の中になったものだ。徐々に荒廃して、活気を失って行く社会情勢は、丁度落ちぶれていく自分を鏡写しに見せつけられているようで、荒んだ心に酷く堪えた。何か、この擦れた心を満たしてくれる物は無いだろうか。男は考えずには居られなかった。そして考えれば考えるほどに、自身の心が、文字通り伽藍堂の様に空っぽである事を自覚させられて敵わなかった。それでも、生きる事への曖昧な執着心だけはしっかりと残っていて、嗚呼、人間って奴はなんてゲンキンな生き物なのだろうと思わずにはいられなかった。

 無意識のうちに吐きだした溜め息と共に、横向きになった男の胃が情けなく呻き声をあげる。腹が空いて仕方がない。生きるためには何か食わねばならない。この部屋にある冷蔵庫に、碌な備蓄など期待できる筈もない。いい加減、スーパーの半額シールが貼られた底の浅い弁当も、コンビニの油に塗れたホットスナックも手に取る事は躊躇われた。そうして不意に、手料理が食べたいという気持ちが脳裏をよぎった。誰かが自分の為に作ってくれた、温かい飯を腹一杯食いたい。人の心が口の中でじんわりと拡がるような、何物にも代え難い幸福感が堪らなく恋しい。そうやって、何か、今の心をどんぴしゃり打つような美味い飯の事を考えながらも、男の手はスマートフォンを弄るのを止められない。こんな玩具に騙くらかされるほど、他愛もない俗物に成り下がってしまったのだろうか。そんな事を意味も無く考えているから、筆は一向に進まないのだ。分かっている。頭ではよく分かっている筈なのだ。男は自身の再現性の無さに、嫌というほど辟易していた。

 この、意味も生産性も無い日常の循環を打破する為には、面白みも生き甲斐も無いルーティーンを自ら破壊するしかないだろう。そして自分という理の外側にある世界に救いを求めるしかないだろう。久方振りに誰か自分以外の人間と、盃でも交わして語ろうか。思い立ったら何とやらだ。面倒でなかなか立ち上がらない腰を持ち上げて、遠出の支度を始める。色が落ちたジーンズを履いて、草臥れたシャツを羽織って、スマートフォンと財布だけをポケットに突っ込んで。後はもう、最寄りの駅に到着する電車にその身を委ねるだけだ。何て簡単な現実逃避だろう。電車に揺られながら、景色が視線の端から端を移動する感覚を思い出すだけで、身体が震える。この瞬間だけ、自分は今を生きているのだという実感が湧く。鳥のように、外界へ羽ばたくその瞬間の為に、大いなる生命力の源たる翼を、その背中に宿しているのかもしれない。きっと男は、元来そういう生き物であった。そして、そういう風にできている自分の事を、男は心の底から好いていた。

 

 「相変わらず、斜に構えたような文章しか書かないんだね。」

そう言って、真向かいに座る女は、眺めていたスマートフォンを懐にしまった。カランッと澄んだ音を立てて、角が取れた氷は、目の前のグラスの中で程良く濁った液体に浸かる。少しだけ水面が揺れて、小洒落た照明が四方に離散した。綺麗だ。ほとほと浅い感想が、脳裏を過った。

「相変わらず、斜に構えたようなコメントしかできないらしいね。」

頭を働かせるのが面倒で、彼女に倣って言葉を紡ぐ。ついでに、いい加減焼きが回ってきたであろう帆立を貝殻ごと救出して、梅の花が彩られた取り皿に避難させた。潮が香って良い。やはり美味い酒には、女と魚介が良く似合う。当の女はと言えば、気安く一緒にしないで欲しいわ、と、大して不満でもなさそうな顔で呟きながら、寂しくなった両手と箸袋で折り紙をして遊び出した。まったく器用な奴だ。

 次の言葉を待たずして、掴みが弱いよ、と女は言った。

「冒頭からいただけないんだよな。何か違う気がしてきた、っていう表現がもう、完全に逃げ出してしまっていると思うんだ。君自身が、この文章からね。君がこの文章を書く事で、誰に、何の為に、どんな事を伝えたいのか、これじゃあ、読み手には全く解らない。解らないというより、読み手の興味を唆らないんだ。せめて、『何か違う』という言葉の解像度をもっとあげて、丁寧に、細やかに綴ってやるべきだと思うよ。画角の真ん中の対象ではなくて、その周りを彩るアイテムを使って読み手の心を擽ってみるとか、何か仕掛けを施してくれないと、全然読み応えが無いや。」

なるほど、最もらしい事を言うものだと、男はいとも簡単に得心してしまった。さしずめ、醤油が隅々まで染み渡ったアオリイカのような気持ちだった。同時に、こんなに薄っぺらい文章しか今の自分には書けないものなのかと、悄然とする思いだった。いつの時代も、どんな些細な場面でも、物事の本質を見極める事ができない人間に成り下がるのが嫌で、それで、それらを描写せんと手にした筆が、今やその役割を果たす事なく目的を見失って何処かに転がっている様は、男にとって心底悲しい事であった。無論、自分という生き物がこの世の何者よりも惨めで愚かしい存在であるように感じられるのは、もはや言わずもがなであった。

 学生だった数年前までは、自身の感受性を最大限に拡張して、この色褪せた現代の1ページにキラキラと光る宝物を見つけては、それを描いて、歌って、綴って、語って、瞼が落ちるその瞬間まで、その煌めきを堪能するのが日常茶飯事だったというのに。いつから、その唯一無二の感受性は普遍的なそれに置き換えられてしまったのだろう。

「あの頃は、僕も君も、他の奴もみんな、同じくらいに輝いていた。本当に奇跡みたいな日々で……、」

言語化する意味が無い、見窄らしい愚痴だと分かってはいても、男は呟かずには居られなかった。その先を口にする事は躊躇われた。喉に絡む事なく、食道をストンと落ちていく透明でクセのない日本酒は、今は男の胃に馴染むようでいて、どこか辛いように思われた。

「だーかーら、それだよそれ。抽象的すぎて何も心に響いて来ないんだよ。酷いくらいに悲観的だし。君の感性はそんなもんか、実力はその程度なんか。……いいや、違うでしょ。ステレオタイプの価値観とユニバーサルな感性で、君という人間を語る事なんて絶対にできない。そんな辞書から引っ張ってきたような色味のない言葉の数々で、借り物みたいな文章を創るのはさっさと辞めた方が良いね。心底面白くないよ、そういうの。」

そう思って、と、彼女はその等身大の言葉を以て、矢継ぎ早に容赦なく、それでいて痛烈に男を批判した後で、安い酒が入ったグラスを空にして、続けた。

「そう思って、私、昨日、仕事辞めてきたの。」

一瞬耳を疑ったが、この女であればそれくらい突飛な事、簡単にやりかねないなと、すぐに思い直した。

「客商売はやっぱり良くないよね。自分を安売りするのが習慣になっちゃうよ。いつの間にか自分の本来の役割が、君が言うところの本質って奴が何なのか、面白いほどに見えなくなる。語彙力皆無な批評のそれだけど、本当に良くないんだって、そう思わされたよね。」

珍しく、端的で感情的な感想を吐くものだ。まるで、醤油に溶かれた山葵みたいだと思った。いや、適当な事を言ったのかもわからない。それでも、舌の上に僅かに残った山葵の主張が、鼻の奥に真っ直ぐ抜けていくような感覚が、たった今、印象に残っていた。

「そういう訳でね、今の私は自分を安売りする行為に敏感なんだ。本当にやめた方が良いと思うよ。面白くないから。せめて結びの文章についてはしっかりと推敲して欲しいものだね。『実際、その背中には、翼は生えていなかった。そういう風に物事を考える自分が、心底嫌だった。』って、これじゃあ書き手も読み手も救われないや。もっと大切にしなよ、自分も、自分の綴った文章の事も。」

 グラスに残った氷はもう既にその原型を留めては居なかった。その世界における本来の姿であるところの液体に戻って、彼らはまた、小洒落た照明の一部を反射して、キラキラと光っていた。その様子はやはり綺麗であった。綺麗だというのが今の自分の正直な感想であって、そこに浅いも深いも、関係無いと感じられた。

 

 本日、何度目かの勘定を済ませて、暖簾を潜る。昔ながらの藍染めだろうか。趣があって良い布だ。

「お会計どうも。これ、大体半分ね。」

数枚のお札と真新しい500円玉を渡される。礼を言って受け取って、まじまじと500円玉を観察する。初めて見るデザインだ。日本札のデザインが変更されるらしい事くらいは把握してはいたが、いつの間にかコインのデザインまで一新されていたらしい。自分の知らないところで、時代は一歩、また一歩と進みつづけているのだと思った。

「じゃあ君、今日から自由人か。」

「そうだよ、君と同じ自由人だ。」

気の向くままに言葉を交わして、都会の生暖かい風に当たっていたら、少し散歩がしたくなる。終電など疾うにない。それでも今日は、終わらない。26時は、僕らのものだ。

 少し街を逸れてしまえば、寂れた街灯だけが夜蝉の動力源になっている公園が見えて来る。外周ぎりぎりに敷かれたランニングコースが、散歩するにはあつらえ向きで、何となく足を動かしているのが心地良い。

「アクティブな趣味が欲しいなあって。」

月明かりが僅かにノった髪の毛を手櫛で整えながら、女は呟いた。

「仕事辞めてまで意図的に時間を作ったんだから、この数年で失ってしまった精神的向上心を取り戻せる活動を探さないと。このままYouTubeNetflixに生活が侵食されてしまうのはナンセンスのそれが過ぎるっていうものだよ。」

どうしてもやりたい事があって、時間に縛られたくなくて、仕事を辞めた訳ではないのだ。きっと君は、嫌というほど仕事とか社会とか、そういうデリカシーのない精神的圧力に支配された世界の本質を肌で感じていたのだろう。それはきっと視認できない程、自身の内側にまで入り込んで来ていて、自分が自分ではない感覚という奴を本能的に感じていたに違いない。

「せっかく音楽の才があるんだ。歌とか楽器とか作曲とか、久しぶりに再開してみたら良いじゃないか。」

何の気無しに、打診してみた。何の気無しに、と言うには語弊があるのかもしれないが、何となく頭に浮かんで来た、霹靂の欠片みたいな言葉をそのまま口に出してみた。

「きっと僕らが学生の頃に創っていた物よりも遥かに深みがあって、奥行きがあって、味わいがあって、素晴らしい作品を生み出せると思う。打ち込めば打ち込む程に、面白い経験が出来ると思うよ。」

しかし女は、肩を竦(すく)めて曰く、

「あまり気乗りしないな、今の擦れた心じゃあ『何か違う気がする』音楽しか演(や)れないよ、きっと。」

奇しくも身に覚えのある言葉で、何の気のない提案は却下されてしまった。当然、男は何も言い返せる筈がなかった。ただ何となく勿体無いな、という気持ちだけが微かに残った。そうして、公園のど真ん中で、今、四方から微妙に照らされている僕らの姿形の、何%が月明かりで出来ているのだろうかと、そんな事を思った。何とも言えない、ぼんやりとした曖昧な思考も、ここではそう悪いものではないのだと、誰かに諭されている気がした。

 小一時間は歩き回っていただろうか。気づけば二人は、数本の植木に囲まれたブランコに乗って、ゆらゆらと空間を揺蕩っていた。時々足が地面を擦って、これが現実の世界の出来事なのだと思い出させてくれる。

 「君みたいに、碌でもない文章を綴るのも気が引けるしなあ。かと言って、あれも嫌だ、これも嫌だじゃあ、それこそ精神的に向上心のない馬鹿に成り下がってしまうしね。」

地面を蹴って、空中で少し前のめりになりながら、女は言った。

「そうだなあ、何でもいいから一つ、熱中出来そうな趣味、挙げてみてよ。音楽と物書き以外で。とりあえず騙されたと思って、私という人間を構成する新しいパーツの一つにするから。」

「随分と粋な無茶振りだね。無茶振りである事に変わりは無いから、迷惑被る事に変わりは無い訳だけれど。」

「本当、斜に構えたような感受性ばっかり豊かだよなあ。もっと素直な会話が出来るように努力して欲しいものだよ。」

「本人の目の前で、そういう明け透けな酷評ができるメンタルも相変わらずだと思うよ。」

ブランコは揺れる。能動的に風を斬る感覚が堪らなく愛おしい。少しだけこの風を堪能して、少しだけ考えてみた。新しいパーツか。相も変わらず素敵なワードセンスだ。心と身体が最高に昂るのを感じていた。空を翔ぶ感覚だ。とても気持ちが良い。

「料理。」

男は女に言った。

「料理。面白そうじゃないか。拘り出したらキリが無いだろうし。何より、自分で美味いもんが食えるってのが良いよな。達成感もひとしおだろうし、アクティブな趣味としては丁度どんぴしゃなんじゃないか。」

ブランコから飛び降りて、対面の手すりに寄りかかる。女と目が合う。つぶらな瞳という奴だろう。心なしか灯りが反射して輝いて見える。相変わらず、透明度が高くて麗しい。

「中々良いセンスしてるじゃない。やっぱり君はそうでなくちゃあね。よーし、乗った。次会う時には手料理を振る舞う事にするよ。楽しみにしときな。」

女はまだ、ブランコの上で揺れていた。少しはにかみながら空を望む姿は、やはりどこか、空を翔んでいるようだった。

 


 少しずつ白くなりゆく人工物の境界線に見守られながら、僕らはそれぞれの帰路を歩み出す。

「君も何か、物書き以外の趣味を始めてみれば良いのに。」

別れ道でちょっと立ち止まって、下から覗き込まれるようにして、きっと、何の気もないだろう、そんな提案をされた。

「趣味くらい他にもあるさ。そうだね、最近のトレンドは友達自慢かな。」

少し得意げに、背伸びをしながら、僕は言った。

「明日会う友人に、昨日会った友人の自慢をするんだ。これでもかってくらいにね。僕には、こんな素晴らしい友人が沢山いて、そうして、目の前の君も、そんな大切な友人の内の大切な一人なんだって事を、伝えるって訳さ。」

分かりやすいフリだなあと、少し笑いながら、彼女は僕に聴いてくる。

「じゃあ、今日会うお友達に、私の事はなんて自慢してくれるわけ?」

ちょうど、太陽の光が女の背中から差し込んで、キラキラと光っている。強すぎる乱暴な光を浴びて尚、上品に輝く彼女は、間違いなく、今この世界で一番美しい存在だった。

「髪の毛がさらっさらで、目がくりっくりで、そんでもって背中にでっけえ翼が生えてる、最高の女ってところ

かな。」

茶化したように言葉を綴ったつもりだったが、彼女は満更でもないような表情を浮かべて、そのまま別れの言葉を口にして、行ってしまった。その後ろ姿を彩る髪の毛は、烏の濡羽のように艶やかで、正に自由の翼そのものであった。

 僕が描きたかった世界は、きっと今、その眼前に広がっていた。

 

 弥永唯 ー2023.12.09.

 

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ゆりかごへ

まえがき

 小さな頃は、自身の掌よりも大きくて分厚い本の中にある世界に入り浸るのが好きだった。簡単で分かりやすいストーリーやキュートでチャーミングなキャラクターよりも、言葉を尽くして細やかに綴られる為人(ひととなり)や、リアルで不完全な人間関係性の上に語られるドラマに強く惹かれた。物語の結果よりも、その結果に至るまでの人間の思考過程と、それが組み立てられる所以たる各々のルーツを丁寧に描いてくれる、書き込んでくれる作品を鑑賞するのが楽しかった。歳を重ねるにつれて自由に弄べる時間が減っていき、そういう文字のウェイトが大きな作品は手に取ることが少なくなったけれど、徐々に成熟していく精神と拡張されていく想像力は、ショート・ショートや現代抽象画、和歌集や写真など、限られた手段で我々に主題を訴える作品を好む原動力となった。興味を示す媒体が変わっても、興味を示す対象は元来変わらずに、この歳になってもまだ、人間と、その思考について考えさせられる作品に触れるのが、何より生き甲斐であると感じられた。

 とりわけ、わたしの私生活に影響を及ぼしたのが短歌(和歌)であった。何故わたしが短歌に執心するようになったのか、きっかけはどうにも思い出せそうになかったが、いつの日からかそれはわたしの傍らで、さまざまな人間の内面の様を、有りのままに、それでいて斜角的に緩く、そして的確に詠んでくれた。そこには言葉そのものの意味以上に解釈のしようがあって、解釈の方向性によって相反した人間性に邂逅できる瞬間は格別におもしろかった。例えば、それが最も顕著に顕れた作品として、日本で最も知名度が高いであろう、藤原道長の詠んだ歌が挙げられる。

この世をば我が世とも思ふ望月の欠けたることもなしと思へば

これは元来、傍若無人の限りを尽くして権勢を奮った道長が「この世で自分の思うようにならないものはない。満月に欠けている物が無いように、全てが満足に揃っている。」と彼自身の人生の春を詠んだ歌と解釈されてきた。しかし近年は、彼の三女の婚姻祝いの席で「今夜は心から楽しいと感じる。空の月は欠けているが、私の月、即ち『后となった娘たちと、宴席の皆と交わした盃』は欠けていないのだから」と、娘の幸せと、それを家臣皆々と祝えた事に対する喜びを詠んだ歌であるという見方が強まっている。これは突飛な思いつきによる解釈ではなくて、さまざまなルーツに則した非常に論理的な解釈であって、和歌の奥深さが実感できると共に、藤原道長の才覚とその二面性とも取れる為人が垣間見える、短歌を嗜む上での醍醐味的な要素を味わう事ができるというわけである。

 蛇足ではあるが、この歌を詠んだ後で道長が家臣に対して返歌を要求した際、家臣がそれを拒み、皆でこの歌を讃唱した、というエピソードもまた有名である。果たしてこの家臣は、道長の傲慢さに呆れ果てながらも、場を取りなすために歌を唱和するよう提案したのか、はたまたこれからの藤原家の発展を祈り、家臣共々結束を強めようとそれを提案したのか。真偽の程は今となっては誰にも分からないが、「返歌を詠まなかった」という異例の事態そのものに強い意味が込められている事に違いはないだろう。

 戯言が過ぎてしまったが、ともかく、その頃の私の人生の半分くらいは、短歌というパーツで構成されていると云っても過言ではなかった。それでいて、私にとって短歌が、どのような存在なのか、何のために存在しているのか知らなかった。今思えばそれは知らないフリをしていただけだったのかもしれないが、私はその本質からは目を背けながらも常に短歌と対峙し、短歌に縋り、そして短歌を愛して生きていた。

描けない世界

 バッドエンドを描いてみたかった。リアリティがあってそれでいて現実とは掛け離れたようなストーリーを、細やかな感情の推移を何か情景に置き換えて、丁寧に書き込んでみたかった。残念ながら、今のわたしには描けないみたいだ。わたしには人間が終わるその瞬間の本質を、未だ理解できないらしい。2ヶ月取り組んだが、日の目を見ないので供養するものとする。非常に悔しい。

 

下記はラストシーンとして執筆していたもの。

 

 近未来型の揺れない揺籠に、潮風に煽られっぱなしの私たちは、古巣のある方向へと運ばれてゆく。何となく、陽が落ちそうで落ちそうにないこの時間の水面の揺らぎが眼下に望まれて、揺れる筈の無い白銀色の四角い世界が侵食されるようにして、それに視界を襲われる。左から右へ流れていくトラス橋の幾何学的な構造が、不安定な存在を現世に縛りつけておくための最後の砦であるようだった。

 結局、私は何がしたかったのだろう。何か私が、私自身が思い描く普通の人間ではないような気がして、何となく私自身が、私自身と決別しなくてはならないのではないかという、そういう何か伝染病のような義務感に駆られていたのは疑いようもない事実だ。

「『何』が、私にとっての正解だったんだろうなあ。」

声に出して、呟いてみた。汗の一筋が頬を伝い、夕陽の一筋が容赦なく差し込んで敵わない。私は顔を背けざるを得なかった。時が進むに連れて、精神と身体の位置情報がどんどん乖離していくような気がした。言葉を、その言葉通りの意味として捉えて理解できる迄にラグタイムが存在するような、そういう不思議な空間の遠くで君が何か話かけている声が聴こえる。

 

「好きだよ、結咲」

 

瞬間、ずっと私に差し込み続けていた直射日光の先端から、蝉時雨の嵐が降り注ぐような感覚を覚えた。頸のあたりは病的に寒い。冷風のせいか。それでも、否が応でも、私の思索など関係無しに、私の脳裏には夥しい数の桜の花弁が舞い上がる。どこか艶やかで重厚な返答の発声は、その存在感そのままに、丁度モノレールが金属を摩擦したような礫音に掻き消されて、どこかへ消えてしまった。

今の今まで雲に隠れていた三日月が、何もない空の真ん中に浮かんでおどろおどろしく揺れている。


ゆらゆら。ゆらゆら。

えりざべすの呟きに導かれて

10代で散らかし回ったものを後片付けしてるうちに20代が終わりそうになってきたから2023年の目標は自分の20代を見出すことにしよう。

 

秀逸な呟きと云えよう。

私の20代も10代の借金を清算している間に無くなってしまいそうだ。

ある意味でそれは悪いことであると捉える事もできるし、悪くないと捉える事もできる。

私の10代は、私が10代の時に消化し得なかった経験を、20代の今、確かに経験として昇華されつつある。

重要なのは、昇華した経験というカードを、20代の私がどうやって使うか、だ。

私は私の20代の為に、果たしてこれらのカードを有効に使えるか。

それは一重に私の手腕次第である。

頑張れ20代の私。決して10代の私に負けること勿れ。

 

タイトルは、それを呟いた主のハンドルネームを拝借して。

悲劇の実存と悲劇のヒロインの乖離性について

 不届き者の友人が「悲劇のヒロインを演じるだけでは足りずに、××する事で本当に悲劇のヒロインである事を証明したんだな。」と言った。発言そのものが不謹慎極まりない事は言わずもがなだが、その時、悲劇のヒロインという言葉が妙に耳に触った。当時私は精神的にも身体的にも微妙で中途半端なコンディションだったけれど、あまりにも違和感が仕事をし過ぎて気持ちが悪かったので、無理矢理筆を起こしてこれを書く事にした。


 一般的な意味合いにおける「悲劇」は、日本語的な意味におけるハッピーエンドに終わらない劇という以外に、厳密な定義を有さない。従って、それが悲劇であるかどうかは演者や観者の価値観によっても異なるし、時代背景や社会情勢によっても捉えられ方は変化する。それは人生の有様によく似ていて、我々人間が悲劇という偶像をこれまで継承、発展させてきたという事実は、人生に対する最高級の賛美の形であると言っても良い。この、短く端的な解釈によって私があなたに伝えたい事は、人生は悲劇的であって、それを完遂する人間が美しいという事である。

 数年片想いしていた女に振られた。これは世間一般的に失恋と呼ばれる事象であり、悲劇的な出来事である。全国大会の予選会で、結果は惜しくも選考落ちだった。目標を達成できなかったという点で、悲劇的な出来事であると言える。100万円分宝くじを購入したが、高額当選は0枚だった。分かりやすく悲劇的な出来事であろう。しかしながら我々人間は、時として結果よりも過程を重視する生き物なのだ。失恋したという結果よりも、それに至るまでの男女の関係性の変遷に惹かれ、魅了されるものであるし、大きな挑戦は、その達成の可否も去ることながら、ゴールに至るまでの工夫や努力、彼らの情熱に感銘を受けるのである。少し極端で、且つ抽象的な例だが、こうして悲劇は、我々人類の生き様を本質的に良く表している芸術として、これまで受け継がれてきた訳である。

 この前提を元に、悲劇の本質に辿り着く鍵は「宝くじが当たらなかった」という悲劇が存在しない事にある。想像に難くはないと思うが、我々は「宝くじが当たらなかった」という悲劇的な出来事に対して魅力を感じない。過程が伴っていないからだろうか。否、そこに「100万円積んだ」という過程は確かに存在するのである。この違和感は例題の種類を少し変えて見る事ではっきり解る。ここでは、100万円分購入する物を宝くじではなく、馬券にしてみよう。同様に、我々は「100万円分購入した馬券が紙切れになった」という悲劇的な出来事に何ら魅力を感じる事はできない。それではこの結果に付加価値的な経緯を付け加えてみる。その馬はつい先日まで数々のタイトルを無敗で勝ち上がってきたエリート。しかしながら、とあるレースで骨折に見舞われ、暫しの休養を余儀なくされる。ファンの期待に包まれ臨んだ復帰戦では鮮やかな独勝。その直後に控えたビックタイトルでは当時人気だった別の馬を抑えて圧倒的な一番人気。実際の金額は分からずとも100万積む"ような"賭け方をした人も少なからず居ただろう。結果はまさかの、原因不明の大敗で11着。100万の馬券は紙切れとなった。この過程を以て「100万の馬券が紙切れとなった」悲劇的な出来事に、少し興味が湧いてきたのではないだろうか。実はこれは現実に起こった出来事(を端的に簡略化して描いたもの)であり、続きのストーリーが存在する。馬の名はトーカイテイオー。彼は1992年の有馬記念での大敗の1年後、1993年の有馬記念に還ってくる。根強いファンが単勝を買うも連勝は人気薄の彼は、そのレースで一番人気の馬と苛烈な叩き合いを制し、堂々の優勝を飾る。騎手涙の勝利インタビューが後世に語り継がれるドラマ的な歴史の1ページである。

 件の例題は、最期まで追うと結果的に喜劇的な性質のフィナーレを以て幕を下ろす事になる。しかし貴方はもう気がついている筈だ。この喜劇的なフィナーレは悲劇的な過程に支えられて存在している。もっと穿った表現の仕方をするならば、喜劇は悲劇の元に成立している。これ以上メカニズム的な話をするのはクドくなってしまうので敢えて言及を避けようと思うが、我々人間は悲劇を生きるから人間なのであって、即ち、悲劇とどのように対峙するかという部分にそれぞれの人間性が垣間見られるが故に、悲劇を生きる人間が美しいと、我々人間が感じられるのは謂わば必然なのである。「100万円分の宝くじが紙切れになった」という悲劇的な出来事に我々が魅力を感じられないのは、そこに悲劇と対峙する人間の人間性が、言い換えるならばドラマ性が見えて来ないからである。つまり、悲劇の本質は、悲劇の中心に在るのは人間であり、その人間が織りなすドラマこそが悲劇なのである。

 このような悲劇の実存性について理解ができるのであれば、貴方はもう「悲劇のヒロイン」の違和感の正体に思い当たる筈である。ある種、忌避的な意味合いにおいて使われる「悲劇のヒロイン」という言葉には「周囲に自分が不幸であることを過剰にアピールする女性」というニュアンスが含まれる。(ヒロインが女性を指し示す言語であるから女性と表記しているだけで、男女の相違はここでは問題ではない。)このニュアンスの中心にあるのは、悲劇そのものか、或いは不幸であるという自身の状況であるといえる。皮肉にも、悲劇の本質が人間であるのに対して、悲劇のヒロインの本質は悲劇的な出来事(状況)であり、つまりそれは「100万円分の宝くじが紙切れになった」という事そのものなのである。悲劇のヒロインは「悲劇のヒロイン」であるからつまらない。別に悲劇と闘う必要なんてない。悲劇を恨もうが憎もうが、そもそも眼中に入れなかろうが、なんだって良い。「悲劇のヒロイン」であることを良しとするな。悲劇の「ヒロイン」であれ。それが自分の理想的な姿でなくても、自分にとって納得のできる結末でなくても、悲劇の「ヒロイン」であったその時間は、必ず、自分にとっての財産になる。「悲劇のヒロイン」ではなく悲劇の「ヒロイン」であろうとした事に意味があるのだ。そういう意味の上で、私はきっと悲劇が好きで、人間が好きで、また同じくして私の耳は「悲劇のヒロイン」という言葉を嫌ったのだと思う。人間は皆、この厳しくも苦しい世界の中で、それぞれに美しく生きて、そしてそれぞれの未来へ羽ばたくべきだ。


 書きたかった事は概ね書いたつもりではいるけれど、体調が今より良ければもっと論理的に主題を論じれたかもしれないし、体調が今よりも悪ければもっと情叙的に主題を訴えられたかもしれないとも思う。私は、私の状態が、私の筆と奇跡的にペアリングできた時でないと自分が本当に描きたい景色が描けないという事を最近になって漸く理解できてきた。それでもこの文章に限って言えば、シンクロナスな状態で筆と向き合った事が、これからの私にとっての財産になるであろう感触を確かに得られたと思う。


おわり。