否唯なしに。

否唯なしに。

否唯なしに。

Syaka1雑感

O.A.

 「今日は貴店のスタッフをお褒めしたくてお電話したの。」

初めにそう言われた。まあ珍しい事もあるもんだな、くらいの気持ちだった。話を聴いてみれば、まあ内容はありきたりで、対応が丁寧だとか、気を遣ってくれるとか、元気づけてくれるとか、そういう気持ち的な、精神面の対応に対する賞賛の入信だった。

 「そのようなお声をいただき、私も嬉しいです。早速スタッフ本人にも伝えさせていただきます。」

私はそうやって、当たり障りのない応答句で珍客との対話を終えようとしたが、この時相手は何か違和感の塊が水面をゆらゆらと揺蕩うような何とも気持ちの悪い微妙な雰囲気で何のためにあるのかもわからない数瞬を創造した。

「本人だけじゃなくてね、彼の上司や社長さんにもね、伝えて欲しいのよ。あなた(:ここでは筆者を指す)だけでこの話を留めておかないでね、そうして欲しいの。」

珍客は、こんな短時間にこんな違和感の塊を言の葉の上にのせて何とも思わないのだろうかというくらいに、それはそれは気持ちの悪い御要望を仰せになった。そうは言っても当時の私にとってはこれは得体の知れないただの違和感の塊に過ぎない。風邪をひき始めた時の首周りが生温くて怠いような感覚であって、自分がまだ病人である事には気づいていない状態だ。そもそも、賞賛の声を本人だけでなく、「本人」を評価する立場にある上席にも伝えて欲しいという思考はギリギリ、常識の範疇で理解できないわけではない。寧ろ、本人を褒めてあげたいだけであれば直接本人に言ってやればいいわけだし、わざわざ本人以外にこの事を伝えるためにご連絡なさったのだろうから、その観点でいえば特に違和感は無い。

「それはそうと、近々、彼が異動になっちゃうらしいのよね。せっかく彼も職場に馴染んできた頃だろうに、気の毒だなあと思って。近所の方々もね、彼の対応には本当に元気づけられていてね。こんなスタッフさんが必要だと思うのよね。」

なるほど、熱っぽい身体から体温計を取り出してみたら38.5℃をさしている、ああ、私は風邪を引いているのだ。そういう、疑念が確信に変わるような体験であった。「お褒めしたくて」とは良く言ったものだ。言葉通り、良く言ったものだと思う。違和感が盛大に仕事をした事は言うまでもないし、きっと読者の皆々様方にも共有いただける程度の感覚だと思う。皆まで言うのもナンセンスだが、否、書くのも躊躇われるが、このような他人のエゴに触れるこの瞬間が、本当に人間の気持ちの悪い愚かしさを存分に感じられて、快楽半分、気疎さ半分、まったくもって複雑な気分である。

 わたしはこれからしばらく、他人のエゴを喰って日銭を稼いで、それを自身の血肉とする事で生きるのだ。いよいよ、人でなしのそれといって過言ではないだろう。

 

人の話は最後まで聴く、とは?

顧客が存在する仕事において、しばしば言われるのが「人の話を最後まで聴く」ということだ。


長話を適当に遮るより、結局は根気強く最後まで聴いた方が、スマートな対応が出来る、という主張を見かけた事があるが、これはある意味では正しいが、ある意味では誤っていると思う。


本当に大事なのは、

・相手が自分に何を伝えたいのか

・相手がどのような人間なのか

この2点を相手が口を開けて忙しなく喚いている間に理解することである。その意味で、自身が長話を遮るべきだと判断できるのであれば、それは人の話を最後まで聴くが正ではないという事になる。


前者はともかく、後者を少ない材料から判断して、自身の直近の対応に如何に反映させられるかが、顧客対応の良し悪しに大きく影響する。その意味で、できる限り情報を収集する為に「人の話を最後まで聴く」という姿勢は正である。


私は結構最初の数分で自身の対応の質と方法を選んでいた。良くも悪くも人の話は最後まで聴けなかったと思う。

 

情報のキャパシティとベクトル的な認識に関して

何れのコミュニティにおいても、自身の適当な立ち位置を把握して他者と一定の距離感を保つ事は必要不可欠であるが、その実現に大きく寄与する「顔色を伺う能力」と「地獄耳」は生涯を懸けて磨くべきスキルであると感じる。


情報を取捨選択できるのであれば、それはあればあるほど良い。もう少し本質的に表現するのであれば、自分が扱える情報のキャパシティを把握できているのであれば、そのキャパシティいっぱいまで情報は収集するべきである。


また、情報のキャパシティには題目ごとにベクトル的に設定されていて、扱うのが得意な分野の情報と、苦手な分野の情報が存在するようである。自身の振る舞いを決定するための情報収集とその方法について、重要性の確認ができたことを収穫とするならば、課題として認識すべきは、取り扱うことを控えるべき情報の種別の精査と、シチュエーション的なスタックの確保である。


つまり、情報の取捨選択ができるのであれば、というのは、情報の正誤の判断をするという事ではなくて、それがどのような種別の情報であるかを理解して、自身がまだ扱い得る代物であるかを把握するという行為に等しいようである。


私にとって特に扱うのが得意な情報はやはり直感的な人間感情や雰囲気の察知に必要な材料の類のようだ。扱うのが苦手な情報は全体的な(俯瞰的に物事を見るために必要な)対応フロー、見取り図、計画の構築に必要な材料。来年以降、これらをどこまで広く、深く、クリアに認識できるか。


過程と結果の評価について

しばしばどちらを重視するか、という観点において話題に挙がるのが過程と結果だと思う。若輩風情に大きな口を叩かせていただくのであれば、そんなものどちらでも構わないといって差し支えない。どちらでもいいから、各々は一つ一つの物事においてどちらに重きを置くかを予め決めておくべきだ。


過程は即ち品質の担保(可視化不可事項)であって、結果は即ち実績(見える化実施事項)である。現実的に考えてどちらも100%理想を達成する事は不可能であって、それぞれの妥協ラインが予め用意されたその上で、更に天秤にかけてどちらを取るかを各々が認識しておくべきなのだと思う。


自身でこの考え方を間違いだと思った事はないし、あくまで現実的な思考の上で考えているつもりだけれど、それでも理想論的な一面があるのかもわからない。それでも、この社会ではこれが曖昧であるシーンが多すぎるように感じられて、自身の認識との大きな乖離に日々苦しめられたと思う。何が許せないかといえば前提条件が曖昧なのに、その場その場の目に見える過程とか結果の一部分だけを切り取って評価するのが当たり前になっている事だ。その評価が良いものであれ悪いものであれ、それに何の意味があるんだ、と何度も首を傾げた。全てに意味を見出す事なんて、それこそ非現実だと思うけれど、少なくとも無意味で仰々しい評価があまりにも立て続けに上から降ってくると、正味気持ちが悪くて敵わなかった。


こういう青い思考はいつの間にか朱に交わって無くなってしまうのだろうか。そうであるならば、その思考がどのように変遷するのか、きっと自身の目で見届けようと思う。


結び

やる気があって有能なやつは本部で管理職に就け

やる気がなくて有能なやつは前線で指揮を取らせろ

やる気がなくて無能なやつは駒にして働かせろ

やる気があって無能なやつは今すぐ殺せ


これに尽きる。いつ見ても本質だと思う。

残念ながら私は多くの場合において無能である。これも、いつ考えても本質だと思う。


今年は初めから1年の命と、たかを括って好き放題適当に生きたと思う。学べた事は多かった。ここに書いた事以外にも、仮面を外して仕事をしたこの1年は自身にとって大きな糧となったと感じる。しかしながら、やはりどこまで行けど私の基本的なルーツは無能である事にある。1年間、割と真面目に働いてみて、改めてそう思う。しばらくは、やる気のない無能であるべく、身の程を弁えて生きたい。無能であると決めつけて適当に生きるのもまた愚かしいので、余ったリソースを自分のために使えるように、その使い方を検討しながら、社会に殺されない無能であろうと思う。兎にも角にも、まずは擬態のハウツーから学び直さねばなるまい。

 

追伸

 そしてまた、結局最後に感じるのはかけがえのない人間関係の構築ができたことへの満足である。何か節目のたびに、何ものにも代え難い人間とのつながりを第一に挙げてしまうのは、やはり人でなしでありながら人に憧れてしまうからだろうか。こんな私と時間を共有してくれた同志に最大の感謝を。またいつか、お互いに大きくなって会える事を楽しみにしている。