否唯なしに。

否唯なしに。

否唯なしに。

「自分がやった方が早い」の贖罪。

 最近また、自分がやった方が早いという思考に囚われるようになった。本来的な意味合いにおいて、それが良いことなのか、悪いことなのか正直わからない。もし誰かに答えを訊かれたら、僕はきっと体裁込みで悪いことだと答えるだろうけれど、本当に悪い事だと思っているのかは分からない。だってそうじゃないか。自分がやった方が早いって事は、きっとそれは他人に何かしら不満が募っているという事だ。他人が各々の責任において相応の結果を出していれば、そんな風には思わない筈じゃあないか。そうであるならば、悪いのは他人だ。自分じゃあない。………でも、自分は各々の責任において、相応の結果を出す事が本当に難しい事だと知っているし、出来ない側の気持ちも知っているし、そういう経験もゴマンとして来ている。それなのに、こんな思考に陥るのは傲慢ではないか。他人を信用できない自分は愚かではないか。最近そうやって、しばしば自分の存在価値を見失いそうになる。

 うまく言葉で言い表す事はできないけれど、自分がやった方が早いという思考は、きっと恵まれた環境というか、ある程度体制が整っているというか、要は上から甘やかされている、ぬるま湯に浸からされている、そういうところで発生する思考の種類なんだと思う。戦場で自分1人で剣を振った方が良いと思うだろうか。当然、思わない筈だ。謂わば、猫の手も借りたいという奴の対極に、きっと今自分は存在しているのだと思う。そういう観点から見て言えば、自分がやった方が早いという思考は、だいぶ悪い方の類の思考であるに違いない。卑屈すぎるだろうか。いいや。恵まれた環境下では、きっと自分はこれ以上強くなれない。賢くなれない。先には進めない。だから本来的な意味において、きっと自分は、常に戦場に身をおいていたい筈だった。だからきっと自分にとって、自分がやった方が早いという思考は、即ち永遠に相入れない、理解できない思考のそれなのだ。だからそういう思考が脳裏を過ぎる度に、嫌悪感に全身を蝕まれるんだ。きっとそうなんだ。

 ああ、でも戦場に赴くのは嫌だ。一人で戦いたくはない。自分はそんなに強い人間じゃない。できた人間じゃない。いつだって、無条件に信頼がおける武器と、帰り道がわからなくなった時に救ってくれる女神が欲しい。贅沢だろうか。そうだ、きっと贅沢なのだろう。ある種そういう意味においては、自分は、きっと愚かで、傲慢な生き物であるという事実を認めざるを得ないのだ。

 過去の僕、今のこの醜態を許して欲しい。あの日、あの時、あんなに身を切って頭を捻って、剣を振るったあの日の僕に、今の僕は顔向けができない。きっと僕は、近い将来、この重い右足を前に進める。無理矢理にでも、この身を渦中に放り込んで、今はただのナマクラと化した錆びた金属の光沢を、きっとまた取り戻す。だからどうか今だけは目を瞑っていて欲しい。カタトキも僕は僕の言葉を忘れない。未来の僕にきっとそれを届けて、そしてきっと今よりずっと、ずっと僕は強くなる。

 絶対にだ。約束だ。

 

2023.1.17   弥永唯/みえい