否唯なしに。

否唯なしに。

否唯なしに。

花火の記憶

ドーン


 冬にあがる花火を人生で初めて見た。虫の音の代わりに刺すような風が身体を通り過ぎていく夜。防寒着。真っ黒な空。ビル群の灯りがいやにはっきりと視界に飛び込んで来る。冬は夏に比べて、空気が澄んでいて透明度が高いらしい。浅学が祟って原理までは覚えていない。澄みきった世界の中で思い思いに放散する光は、確かに夏に見たことのあるそれに比べたら、何か質の違う別な芸術を眺めているようだった。

 

 ドーン

 

 ドーン


 ドーン


 音だけは、夏のそれと変わらずに、確かに重苦しい振動を心臓にぶつけてくる。この身体が震える感覚は、なんとなく、懐かしい記憶の中に覚えがあった。

「なあ」

僕は、たまたま隣に佇んでいた旧友に、顔も向けず声をかけた。

「花火の音を聴くとさ」

旧友も、ろくに返事もせずに花火を眺めていた。

「部室で、」

そう言いかけて、僕らは互いに顔を見合わせた。旧友はヘラヘラと、合点がいったような顔をしていたし、きっと僕もそういう表情をしていたと思う。花火と部室。たった2つの単語だけで、僕の言わんとしている事を旧友は汲み取っていた。無論、僕も、彼がそれを理解してくれるであろう事には全面的な信頼を置いていた。だから2人で顔を見合わせて、一瞬、視線を交錯させて、そしてまた、僕らは花火を見ていた。それ以上、僕も、そして彼も何も言わなかった。何となく、今日見た鮮明な形をした花火の数々はいずれ記憶の果てまで飛んでいくだろうと思った。鮮明過ぎて覚えている事など不可能だろうと思った。あの日、形影を見たわけでも何でもないのに、はっきりと記憶に刻まれている花火のそれは、きっと残暑のゆらゆらとした空気に冒された、ぼんやりとした曖昧なものだったからだろう。


 ドーン


また、花火が鳴った。

「忘れられないよな」

同時に、彼が小さく呟いた。もしかしたら、それは僕の言葉だったのかもしれない。もう、忘れてしまったけれど、それでも忘れられないという言葉が、確かに冬の宙を舞っていた。


 それは、自身の思考が如何に中途半端で、如何に見通しがなくて、そして如何に再現性がないか、思い知らされた瞬間だった。その日は、例によって花火があがっていた。今よりもずっと濁った空気の中で、蝉の鳴動がまだ煩い夕方に、花火の音が響いていた。仮に今もう時効を迎えていたのだとしても、僕はその日を真っ直ぐには綴れないと思う。自責の念が無かったかといえばそれは大きな虚言であって、人間を忘れた心にも大量の冷や汗が流れた。今日と違って、対面に座っていた彼は一言、だがはっきりと言った。

「失敗だ。ペナルティが課せられた。」

無論、考慮しなかった訳じゃない。そこまで、僕も、そして彼らも愚かではなかった。いや、結局、結果として僕の愚かしさはその瞬間にはもう明確に露呈していたのかもしれない。そう、結局、僕は物事の優先順位のつけ方とリソースの配分の仕方を誤っていたのだ。世の中はそんなに甘くなかったし、現実は実に辛いものだった。僕は、否、僕らは、各々の刃を手に、肉を切らせて骨を断ったつもりだった。そういうシナリオである筈だった。僕らがそういうシナリオを演じられるような、そういう舞台を僕は用意した筈だった。つまり、そのシナリオが瓦解した時点で全責は間違いなく僕の手の中にあった。つまり、僕にとって花火の音は、そういう記憶と共に脳裏に保存されていた。


 この面子で花火なんか見に来るなんてね、と、そう彼女はつぶやいた。僕もまったく同意見であった。彼女もまた、彼と同じく、今日は僕の横に居た。横で花火を見て、彼女が何を思っていたか、僕にはわからなかった。正味、どんなに苦楽を共にした旧友でも、女の考える事はわからなかった。今も昔も、それは僕の理解の範疇の外にあった。それでも、その横顔は今も昔も凛として遠くを見据えていて、変わらず、強い自分をその魂の上に着せているのだと思った。彼女がそういう奴だということだけ、知っていた。

「良いことだろうね、」

僕は、花火なんか見に来るなんて、という彼女に、答えになっているともなっていないともよく分からない言葉で返答した。物事を良いとか悪いとか、そんな一面的な要素で判断できない事など百も承知だったが、それでも僕にとって、今日、この花火を旧友と眺められた事は、良い事でなければならないと思った。ふと、彼女の横顔を雫が伝ったような気がした。街の灯りがやけにクリアに反射して、頬が透き通っていて艶やかだった。


ドーン


今の記憶をそのまま持って、あの日までタイムスリップできたら、僕はあの日と違う道を歩くだろうか。


ドーン


この重苦しい心臓を震わせるような音に、今とは違う、別な記憶を紐付けるだろうか。


ドーン


ドーン


ドーン


「綺麗なんだな、花火ってさ。」

何となく、考えもなしにそう言ってみた。

「結局、そういう事だと思う。」

彼もそう言って、花火を見ていた。

彼女は黙って、花火を見ていた。


ドーン………