否唯なしに。

否唯なしに。

否唯なしに。

「レゾンデートルの看破」

 

プロローグ

 「だからさ、あの時僕が最後のカードを切る覚悟ができたのは、コイツが靡(なび)いたからなんだよね」

右手に触れていた桜の花びらが彩られている可愛らしいデザインのグラスを、その人差し指でコンコンと叩きながら、彼は言った。液体がわずかに残ったグラスからは、決まって小気味いい音がする。アルコールにまったく耐性の無い自分は、この音を聴くために二次会への参加表明をしているのかもしれない。いつだろう。自分がこの音の尊さに気づいたのは、好きだと感じるようになったのはいつからだろう。初めてこの音を認識した瞬間を、思い出すのが難しい。

「それじゃあ、…先輩が団長をやることになったのは、烏藤先輩の後楯(うしろみ)があったからなんですね…。」

「まさか、そんなに前からだったなんて、全然気がつきませんでした…。」

古の記憶に思いを馳せていると、直属の後輩達から急に名前を呼ばれた。はてさて、自分の後楯なんて、いつぞやの話をしていたのだろう。一瞬、耳がお留守になっていたのを誤魔化すべく、適当に微笑んでおく。ついでに、何の話だよと言わんばかりに彼の脇腹を肘で突く。

「まあ、そういうことだったって訳よ」

良い塩梅に酔って上機嫌になった彼は、小突かれたことに気が付かなかった振りをして、話をまとめてしまった。或いは本当に気が付かなかったのかもしれない。もっと強めに小突いてやれば良かったか、そんなことを考えながら空になった彼のグラスに無言でシャンパンを注ぎ足す。中身が満たされたグラスに、再び彼の指があたる。鈍く、重苦しい音が微かに聴こえる。この音には、聴き覚えがある。忘れるわけがない。あの日、あの夜、彼の家で、戦争が始まる前に自分が鳴らした音だ。さながら開戦のゴングのように、それは我々同期の記憶の中で鳴り響き、そしていつまでも鳴り止むことを知らない、あの夜あの場にいた全員に業を背負わせた、罪の音だ。

「呑みの席ある度にこの話出てくるけど、まあ忘れられないよな。今までの人生の中で1番堪えたかもしれん。」

「お前は相当病んでたよなあ。あの夜から2ヶ月くらい、心ここに在らずって感じだったもんね。」

対面に座っている同期の二人が、カラカラと笑いながら嘯(うそぶ)く。あの頃は全員燃えるように言葉を交わし、死にながら戦い、鎬を削りながら吹奏楽団を運営したものだ。

「時の流れって恐ろしいよ」

気がついたら、脳裏に浮かんだそれがそのまま口から出てしまっていた。時間が経ちすぎているのは嫌でも理解していたつもりだが、それでも実感が湧かないというものだ。

「烏藤がそれを言うのか、本当に時間って人を変えちゃうんだから、怖いもんだね。」

「それ、完全にブーメランだと思うぞ、多方面に刺さるから止めた方が良い。」

「ちょっと、先輩方だけで盛り上がらないで下さいよ、せっかくですから昔の話もっと聴かせてください。」

何故か、自分の他愛もない一言が宴会をあたためてしまったようだ。もっと昔の話を、か…。後輩の他愛もない一言が刺さる。あたたまった宴会の空気とは裏腹に、心が冷える。何とも形容し難い、複雑な気持ちが煩わしくなり、目の前のグラスを手に取ろうとした。何も入っていないそれからは、空虚で音のない音が聴こえると思った。結局、手に取るのをやめた。

 

Character

 

烏藤(うとう)……アナライザー。 理想家。 担当楽器:ユーフォニアム 語り部

茅守(かやもり)…サポーター。  努力家。 担当楽器:スネアドラム

貴志(きし)………コントローラー。革命家。 担当楽器:トランペット

久遠(くおん)……プロモーター。 人情家。 担当楽器:ソプラノサクソフォン

 

Background


○某大学応援部

 部の中心として部員を統率し、応援の要となるリーダー。音楽で応援のボルテージを揚げる吹奏楽団。ダンスやスタンツによって応援を華やかに彩るチアリーダーズ。これら三パートによる三位一体のパフォーマンスにより、大学に勝利をもたらすべく応援に全力を捧げる団体の総称。

○応援部専属吹奏楽

 某大学応援部を構成するパートの一つ。その活動は応援・演奏・マーチングドリルなど多岐にわたっており、シチュエーションによって求められる音楽が変わる団体。時に激しく、時に美しく、時に華やかに応援の舞台を彩る。
 構成員も吹奏楽経験者から音楽未経験者まで多岐にわたっており、各々の活動に対する熱量や目指しているベクトルも僅かに異なる。現在30名規模で活動中。

吹奏楽団第57期幹部

 今年度、当吹奏楽団を牽引する最高学年の団員。前述の烏藤・茅守・貴志・久遠の四名から成る。烏藤が学指揮、茅守が打楽器セクション、貴志が金管セクション、久遠が木管セクションを、それぞれ担う。
 近年構成人数が増えてきた当該団体のトータルバリューを底上げする事を、強く求められた世代。演奏のクオリティーを筆頭に、老朽化した楽器の管理や恒常的に使用する楽曲の譜面の統合など、多くの課題解決に挑む。
 30名弱存在する後輩を、4人で牽引することを強いられる、試練の代。

 

第1章 サポーターの本質

 もう少し寒かったら霙にでもなっていそうな雨だ。試薬の下準備があと30分早く終わっていたら、当たらずに済んだのに。ひとり言ちりながら、学内にあるカフェテリアへ足を向けた。道行く女達は季節感をものともしない顔で、惜しげもなく白い脚を晒して歩いている。見ているこっちが凍えて死んでしまいそうだ。厚手の綿パンを適当に穿いている冴えない男共の方が、この場合は遥かに賢いと思える。そういえば、どこかで中国メディアの観察者網が、日本人女性は冬の寒さを恐れているのではなく実際に寒くはないのだ、とかいう訳の分からない主張をした記事を読んだことがある。確か海洋性気候の特徴が強い日本では気温が湿度に比例するから、全体的に体感温度が低すぎることはなく、短時間であれば生足でも耐えられる、とかなんとか。何でもかんでも論理的に説明したがるのは分からないでもないが、とりあえず初冬の日本で山から吹き下ろしてくる風に当たりながら、もう一度その記事の内容を推敲してみればいいと思ったものだ。

 くだらないことを考えているうちにカフェテリアの入り口が自分を通り過ぎて行った。LINEで、待ち人へ到着の旨を知らせる。室内の暖房が心に染みる。日本人女性が冬でもスカートを履くことが許されるのは、間違いなくこの充実した暖房設備のおかげだろう。待ち人からの返信を知らせる携帯電話も、徐々に温かみを取り戻して嬉しそうにしている。どうやら奥のボックス席を陣取っているようだ。サシで話すだけなのにまた豪華な席を押さえたものである。スペースの無駄だ。悪い気はしない。

「お待たせ。待ってたとしても謝る気はないんだけどね、所詮社交辞令だし。」

適当に声をかけて、待ち人の対面に座る。

「待ったに決まってるんだよなあ、30分遅刻だよ、別に良いんだけど、呼んだのこっちだしね。」

待ち人、もとい茅守は既に冷めて物憂げな味がしそうなコーヒーを啜りながら、手をヒラヒラと振った。

「なんでわざわざこんな死ぬほど忙しい時に呼んだん?楽譜の打ち込みとか絶対手伝わんからね、C譜読むの怠いとか言ったら許さんよ?」

適当にホットミルクを注文しつつ、そして適当に悪態をついてみた。議題は分かっていたが、何の為に自分が呼ばれたかとうに察しはついていたが、茅守の出方を伺いたいが故に、敢えて論点をずらして踏み込んでみた。要領の良い茅守の事だ、楽譜の打ち込みくらいとっくの昔に終わっているだろう。勉強熱心が祟って、B♭譜とF譜くらいはスラスラと読めるようになっているかもしれない。

「烏藤にC譜打たせるほど忙しくないよ。楽譜の打ち込みならほぼ終わってるから、後で適当に確認しておいて欲しい。Googleドライブにデータあげておくから。」

どうやら予想していたより、この男は遥かに暇を持て余していたようだ。数時間がかりの実験が後に控えている身としてはまったくもって羨ましい限りである。目の前に座っているのが吹奏楽団の人間以外であったとしたら、適当にあしらってラボへ蜻蛉返りしているところだ。しかしながら数少ない大事な同期からの呼び出しとあっては、無下にできないのが悔しいところである。

「それで、本題なんだけど。」

茅守が言う。

「近いうちに57期の団長を決めなきゃならない。それについて、君と一度、一対一で話しておきたくてね、それで呼んだんだ。」

どうやら、当ては外れていなかったようだ。まだ熱々のホットミルクが入ったカップに手を添えて、茅守の目をまっすぐと見据える。

「そうだろうと思った。制限時間は1時間弱ってとこかな。付き合うよ。」

こういう込み入った話は、短期決戦に限る。ホットミルクが冷めない内に。温もりが消えて無くなる前に、片をつけてゴールテープを切ろう。何となく、人間と会話をする為のスイッチが無理やりONにされていくのを感じた。

 我々が所属している応援部専属吹奏楽団は、学部3年の後期から4年の前期までを、最高学年として活動する事が定例となっている。彼らは幹部と称され、8月中旬に次期幹部へとそのバトンを渡すまで、吹奏楽団の全責任を負うと共にその役割を命を賭して全うする。次期幹部にあたる三回生は俗に準幹部と呼ばれ、幹部の背中を追いながらもその先を見据え、次期以降の盤石な基礎を築く事が求められる。本年度第56期吹奏楽団において、その準幹部に当たるのが自分と、そしてその他3名の同期なのであった。

 団体を運営する基礎を築く上で、まず必要なのはミッションの設定である。ミッションが存在しない団体は団体として成立せず、もとい成立する必要性が存在せず、結果的に崩壊の一途を辿る。従って団体にミッションは必須であり、団体を運営する者はミッションの設定を強要される。幸いな事に応援部専属吹奏楽団は「大学を応援する事をミッションとした応援部」の元に存在している団体であり、ある程度そのミッションが明確に定まっている為、毎年運営する人間が変化したとしてもその成立がある程度約束されている。従って準幹部である我々が次期吹奏楽団を運営するにあたり、一番に考える必要があるのは「どのようにミッションを遂行するか」であり、ひいてはそれは「各々がどのような役割を担うか」という議論に発展する。この論題に端を発し、準幹部は、毎年初冬に次期リーダーを選出する必要性に迫られるのだ。

 今、我々準幹部の頭を悩ませる命題は正にそれであった。次期リーダーの選出。希望してできるほど半端なそれではないし、誰々が良いと思います、的な無責任なノリで押しつけ合うのも甚だ論外である。少なくとも準幹部4名全員が納得し、そのリーダーの元に全勢力を注ぐという気概が成立しなければリーダーは立たない。リーダーは成立しない。更にはそのリーダーに後輩達を追従させなければならない。このような、「リーダーになる為の条件」は数え切れないほどあるし、我々準幹部4名の内、誰かはその条件をクリアしなければならない。そういう訳で我々準幹部は今、窮地に立たされていた。いや、窮地に立たされているように思われているのだった。

 今、目の前に座っている茅守という男は、ここでいう「リーダーになる為の条件をクリアしている側」の人間であると思う。あくまで自分、烏藤の主観でしかないが、おそらく茅守はリーダーという役職を振られた時に遜色ないパフォーマンスを発揮できる筈だ。茅守自身もこれまでの人生経験から自分のことをそのように評価しているのではないだろうか、と思う。敢えてウィークポイントを挙げるとすれば、その自己評価が低すぎる事なのだが、まあそれは最後に本人に言えばいいか。いい機会だし。とりあえず、この自己評価低め高スペックリーダー適正あり男、もとい茅守が、現状をどう総括しているのか聴いておかなければなるまい。

 「まあ、結論から言ってしまうけれど、団長を務めるべきなのは、俺か烏藤のどちらかだと思っている。」

コーヒーが僅かに残ったカップをいかにも量産型といったデザインのソーサーに戻しながら、茅守は言った。陶器同士が触れ合う音は僅かに耳に触る。

「烏藤はもちろん察してるだろうけど、57期は勝負の年だ。小さな団体から大きな団体への転換期、ここでどれだけその基盤を固められるかで今後のウチの成長速度が変わると思ってる。………だから57期のトップには特に『安定性』という資質が求められると思う。下をガンガン引っ張っていくんじゃない。着実に団体を前に進める準備をする、群発するであろう想定外のトラブルに見舞われてもブレずにまとめあげる、そういうリーダーが57期には必要なはずなんだ。」

普段から、茅守という男は非常に冷静な人間だ。どんなに過酷な環境でも顔色ひとつ変えず己の役割に専念し、確実に及第点以上の結果を仕上げてくる。そんな冷静沈着を体現したかのような男をここまで熱くするこの命題が、自分達にとってどれほど重く、大事な物なのかを改めて知らしめられた気分である。

「それで、そういうリーダーが務まるのが、自分か茅守の2択になるんじゃないかと、そういう話だよね、これ?」

少しだけ先を視て、議論を先導する。熱心に現状を俯瞰する事は必要だが、議論に熱中するのは時間の無駄だ。建設的にこの話し合いのゴールを設定したい。見極めておきたい。そこまで最短距離で到達するのが、最も美しい議論の形だ。特に、憂慮するべき理由がなければ。

「早い話がそういう事だね。さっきは割と綺麗事みたいな言い方をしたけれど、つまりは『仕事ができる人間』が次期リーダーをやるべきだと思うんだ、俺は。………別に貴志と久遠が仕事できないって言ってるわけじゃない、要は効率の問題だ。」

茅守が言わんとしている事はよく理解できる。

「間違いなく、クリアしなければならないタスクが山積みで、常に想定外のトラブルと隣り合わせ。トップがいかに効率よくそれらを捌けるか。それが大事だって、そう言いたいんでしょ?」

「話が早くて助かる。それで烏藤の考えを聴いておきたいと思って呼んだ。まずはこの話を烏藤としたかった。実際、烏藤は誰を上に立てるのがベストだと思ってる?」

茅守が自身の望むゴールを示してくれた。確かに仕事ができる男だ。

「まあ、そこを聴いておきたいっていうのがやっぱり本音だよねえ。因みに茅守はリーダーやる気、あるの?自分がリーダーやるっていう事象に対して、どれくらいの本気度がある?」

質問に質問を返す禁忌を犯して、回り道をする。茅守のゴールへの最短ルートを、意図的に踏み外す。

「烏藤にやる気がないなら、全然やるよ。そっちがやりたいなら任せるかなって感じだ。後は貴志と久遠の考え方次第かな」

「人任せな言い方だなあ………良くないよ、本当に。」

「まあ必要条件が満たされてさえいれば、誰がやったとしても一定以上の成果は出せるだろうし、これは極論だけれど。」

軽く嗜めつつも、このあたりは茅守らしい、非常に冷めた考え方だと思った。茅守の言葉を借りるなら極論、そう、「極論、誰がリーダーをやってもいい、条件さえ満たせるなら」だ。自分的にはこの考え方の良し悪しについては半信半疑と言ったところだが。…さておき、どこに自分のゴールを設定するのが良いだろうか。はたまた「自然に見える」だろうか。ちょうど緩くなって、猫舌には優しい温度感となったホットミルクを啜り、考える。果たして自分は、残りの数十分で「茅守を57期のリーダーに据えるのがナンセンスだ」という事を後腐れ無く証明できるだろうか。

 言わずもがな、人間社会で最も重要な資産は人間である。豊かな社会を維持する為には十分な人材が必須であり、花めく団体を運営する為には優れた人材の育成が求められる。史実を改めれば、かつて国々を治めた英雄達は多くの優れた人材に恵まれ、その腕達者の数々を従えることができた智将が、即ち天下統一をなし得た事は明らかである。逆に言えば、智将は優れた人材を以って智将たり得、それを獲得できなかったのだとしたらそれはもはや智将ではないと考えることもできる。即ちそれは智将に成りきれないのである。

 「全然関係ないけど。」

一呼吸置いて、茅守に問う。

「有名なお話、三国演義ってあるじゃん。中国の昔話の。魏・呉・蜀の三国に分かれて、曹操孫権劉備が天下を争う話。なんでかわからないけど、蜀の劉備とその臣下の諸葛孔明っていう軍師にさ、スポットライトが当てられて物語って進むんだよ。劉備が人望に厚いみたいな、有名な設定があってストーリーの中心に据えるのにお誂え向きだったのかね、知らんけど。…それなのに、その劉備が治めていた蜀は、結局天下を取るには至らないんだよね。史実では最終的に、魏にルーツがあった司馬一族が晋っていう国を創って三国統一するんだけど。………茅守はなんで、蜀が勝てなかったか、そして天下を取らなかったのか、知ってる?」

「マジで全然関係ない話だな。確か、劉備が亡くなった後、孔明が実質的な指導者になって北伐(要は魏の領地への遠征)に行くんじゃなかったっけ。それで、何回も繰り返している内に国力が衰えて、北伐完遂する前に国が立ち行かなくなった的な。そのまま魏に取って喰われたみたいなストーリーだった気がするけど。」

「おお。意外と詳しいじゃん。大筋はそんなもんで合ってるよ。まあ北伐が上手くいかなかった理由はその時々によって色々あるんだけど、なんせ7回だか8回だかやってるからね。その内孔明もしんじゃうし。」

でも、と、茅守の曖昧な回答に難癖をつける。

「蜀の国力が疲弊した本質的な理由はそこじゃないんだよね。北伐は蜀が天下を取る上で必要な行為だった。蜀の優秀な頭脳である所の諸葛孔明もそう判断したから、何度失敗しても、時を改めて何度も強行したんだよ。つまり、『北伐したから、国力が衰えて蜀は天下を取れなかった』んじゃないんだ。」

この男には、「本質」という要素を理解してもらわなければならない。吹奏楽団が、この未熟そのものである団体が進化する為には、この男にもっと未来を視て貰わなければならない。

「国力が衰えたのは、劉備赤壁の戦いで手に入れた荊州(魏呉蜀のちょうど中立に存在する広大な土地)を死守できなかったから。当時の中国において特に肥沃な土地だった荊州を、天下統一の鍵を守りきれなかったから、蜀は天下を取れなかったんだよ。」

 当時の地球は寒冷期を迎えており、「部下を食わせること」が時の君主に求められた重要な役割だったと言われている。肥沃な荊州の大地の重要性は当時の智将らにとっては周知の事実であり、だからこそ魏の曹操は多大なる犠牲をも厭わず荊州へと南征したのだろう。これを劉備孫権の合同軍が撃ち破り、結果として劉備が漁夫の利的な成り行きで荊州を手に入れる事になるのだ。その後、この荊州劉備の側近とも言える関羽という人物によって治められる事になるが、政治家としては三流だった関羽は、呉との関係性を良好に保つことが出来ず、最終的に荊州全土は呉に掠め取られる事になる。確か史実ではおおよそこのような流れで荊州が蜀の手から落ちた筈だ。

荊州を守れなかったのは関羽のミスだ。そしてこれは、関羽荊州に一任した劉備、もとい諸葛孔明のミスであるとも言える。ここがこの話の肝だ。本質なんだよ、茅守。」

これから未来を視て貰うことになる男の目を、真っ直ぐに見て、告げる。

劉備の治める蜀は深刻な人手不足だったのさ。関羽だって劉備にとっては信頼のおける、いわば優秀な部下だった。関羽一人に任せられるほど荊州は軽い土地ではなかった、それでも、関羽に任せるしかなかったんだよ。人手が足りなかったから。寧ろ、最大限リソースを投じた方だっただろうと思う。直属も直属の部下を懐(蜀の本拠地であるところの益州)から遠く離れた土地に派遣した訳だからね。」

きっともう、茅守には、これから自分が言わんとしている事が伝わった筈だ。もう十分過ぎる程に伝わった筈だ。茅守は何も言わない。黙って、その先の言葉を、その意味を真摯に呑み込んでくれる様子である。

 


「第57期吹奏楽団も、同じだ。」

 


 豊かな社会を維持する為には十分な人材が必須であり、花めく団体を運営する為には優れた人材の育成が求められる。現状、我々が所属している吹奏楽団は、団体として致命的な欠陥を背負った「衰退が約束された」団体なのだ。

 既にホットミルクは無くなっていた。カップの中身は空っぽだ。代わりに、この無駄に広くて真新しいカフェテリアのボックス席は自分で満たされている。虚ろな音は聴こえない。完全に自分が、烏藤が、この2人だけの世界を獲っていた。

 

 「つまり烏藤は、俺をこの団体のトップに据えてしまったら、57期のリソースが足りなくなるって言いたいんだね。」

目の前に座っている男は頭が良かった。瞬時に要旨を捉え、その先を視る事ができた。それでこそ、と思った。同時に、自分の目をもっと信頼して良いと感じた。私の目は、今を最も重く、正確に視られる目だ。

「そういう事だよ、茅守。相変わらず、話が早くて助かるね。」

「じゃあ結局、烏藤的には誰推しなんだ、リーダー。その話でいくと自分も無しって事だろ?」

これまでの話の流れ的に、茅守から再びその質問が投げかけられる事は明白だった。故に、「返答」は用意してあった。

「その話さ、ちょっと待って欲しいんだよね。どうせもう自分、ラボ戻らなきゃ行けないし。それよりも、茅守には考えておいて欲しい事があるんだ。」

先程までホットミルクで満たされていた空間を適当に見つめながら、言葉を紡ぐ。

「改めて、茅守自身の57期の立ち位置を考え直してみて欲しい。君は言ってしまえば、何でもできてしまうスーパーサブなんだよ。頭も柔らかい、仕事も早い、素行善良だし演奏技術もそこそこ高い。インプットアウトプット共に効率的だからホウレンソウ(報告・連絡・相談)もスムーズだし、指示出しにも無駄がない。先輩方から見たら頼れる部下だし、後輩達からみたらお手本にされる上司だ。」

過大評価をしているつもりは無い。寧ろ、だからこそ自分は、この男に警鐘を鳴らしておきたい。

「だからこそ、そんな君の欠点は分かり易い。『欠点が無い事』だよ。」

 良く思わせぶりな小説や寸劇で耳にした事があるかもしれない、「欠点が無い事が欠点」というある種パラドクス的な表現。しかしその意味を真面目に考えた事があるだろうか。おそらく多くの人間にとってその答えは否だ。何故なら自身に欠点が無いと感じる人間など居ないから。人間は省みる生き物だ。どうしても「あの時ああすれば良かったな」という思考パターンを失うことはできない。なんなら、純粋な意味において「欠点が無い」人間なんて存在しない。仮に欠点が無い人間が存在するとしたら、多分もうそれは人間ではない、神か何かだ。我々人間が存在を認知する事すら叶わないだろう。

 ではここで言う、「欠点が無い事が欠点」とはどう言う事なのだろうか。これを突き詰めて考えていくと、自分はどうやら「欠点が無い事が欠点」というパラドクスの本質は「欠点が他者から見えない」事にあると思っているらしい。日常生活に落とし込んで、具体的に考えてみるとその弊害は大きく2つに分類される。1つは「他者との間に壁ができやすい事」だ。我々凡人にとって、欠点が見えない完璧人間は雲の上の存在にみえる。実際、茅守がそうである。諸先輩方の間には茅守の意見に一目置かざるを得ない風潮が見て取れるし、後輩達はその平凡な悩みを茅守においそれと打ち明ける事はできないだろう。別に人間が悪いわけではないから避けられるでも、腫れ物扱いされるでもない。いわば敬遠されているというのが、彼を表現する上で語源的に正しいと言える。無論、幾度となく茅守と苦楽を乗り越えてきた我々同期はもうそのような次元にはいない。しかし、茅守と同じ土俵に立って対等に付き合えるようになるまでにはそれなりに時間がかかる。茅守を団体のトップに据えた時、この壁が大きな弊害となる。茅守自身のコミュニケーション能力は間違いなく人並み以上のそれだから、後輩達と、57期を運営する大事な人材と心を通わせる事は別に難しくない。しかしながら、我々にはそこにリソースを割くほど余裕は無い。茅守という優秀な人材のパフォーマンスを、この吹奏楽団の環境下で100%活かすには、茅守はリーダーであってはならないのだ。茅守がリーダーである為に、茅守自身がそれにリソースを割くのは、ナンセンスのそれであると言える。

 もう1つの弊害が「本人へ恒常的に負荷がかかり続ける事」だ。欠点が他者から見えないという事は、言い換えれば常に本人は完璧な存在であり続けなければならないという事だ。我々凡人からすれば常に完璧である必要など微塵もないが、「欠点が無い事が欠点」である人種に限って「常に完璧でなければならない」という思考に束縛されがちである。このような完璧主義は、当人のキャパシティーの範疇であれば特に問題ないが、時に予想外の事態やトラブルの重複によってそれを超えた時に、本人へ深刻なダメージを及ぼすという事を、自分は経験上知っている。さらにタチの悪い事に、そのような「非常事態」を経験したことが少ない彼らにとって、その対処方法は確立されていない事が多く、自身のパフォーマンスを通常の状態に立て直せるまでに凡人の数倍時間がかかる。リーダーという役割はありとあらゆる責任を背負い、団体を包容するポジションであり、それが該当する人間に及ぼす負担は言わずもがな、計り知れない。これはもしかしたら個人のエゴなのかもしれないが、その多大なリスクを茅守に負わせるという「リスク」を進んで負う事は、57期の幹部にとって自滅行為と言って差し支えない事項であるかと思う。このように、「欠点が無い事が欠点」というパラドクスの本質は、凡人が想像する以上に厄介で、大きな懸念事項であるというわけである。

 「欠点が無い事が欠点かあ。烏藤が言うと真実味がすごいな…。だいぶ的を得てるかもねえ。」

既にだいぶ前から空になっているコーヒーカップを弄りながら、茅守は気にしていない風を装ってのんびりと呟いた。

「いうて、茅守が57期の吹奏楽団にとって大事な人材である事に変わりはないんだ。スーパーサブは文字通り、サブというポジションで輝ける。裏方でその真価を発揮できる人材だ。なんでも出来ちゃうからリーダー押し付けられて、流れで就任するなんてシチュエーション、今までに山程あったろうし、なんなら大体卒無くこなしちゃうから当人達はきっと気づいていないんだけどね…。なんでも出来る人の本職は『サポーター』なんだよ。」

これを、言いに来た。これを茅守に伝える為にわざわざ過密スケジュールの合間を縫ってここまで来た。ゴールテープはもう切れた。及第点だろう。合格だ。

「じゃあ、自分ラボ戻るわ。ここの会計よろしくね。」

ホットミルクの代金を丁度、茅守に手渡して別れを告げた。

「分かった。忙しいところ悪かったね。近いうちに4人で話そう。」

「そうだねえ、まあ今月末にでも、久遠の家に集まろうか。」

今度はこちらがヒラヒラと手を振って、カフェテリアを後にする。

 


 吹きつける木枯らしが身体に堪える。いつの間にか、雨は止んでいた。ポケットからAirPodsを取り出して、冷えた両耳に差し込んだ。イヤホンを付けている時だけが1人になれる瞬間で、外の世界の音を遮断してドラムのリズムで歩いた。

 


 タッタッタッターン、タッタッタッターン…

 

第2章 プロモーターの本質

 このご時世に、紙媒体のスコアを学生食堂で開いているのは自分くらいなものだろう。来週末に合奏を控えたブラチア楽曲(ブラスバンドチアリーダーズの合同パフォーマンスに使用される曲)の譜読みは全くと言っていいほど進捗を見せず、最早スケジュールの合間を縫って予習をしないと練習に間に合わない惨状がそこにはあった。幸いなことに、最近流行している楽曲のほとんどが同様のコード進行を採用している為、メロディーラインが極端に変則的なものでなければ、曲全体の流れを理解するのに然程時間はかからなそうだった。作曲界における劇薬と評される現代楽曲の象徴こと「丸サ進行」は、手っ取り早くお洒落感を演出する事ができる上に、絶妙な哀愁を漂わせる事が可能で、尚且つ自然とループするように出来ている。誰が使ってもその万能性は約束されており、正に劇薬の名を欲しいままにしているといったところだ。

 約束の時間まで、あと5分を切った。今日は自分が待ち人役を演じさせられているようである。待ち人はその揺蕩う時間を欲しいままに、好き勝手戯言を呟く事ができる。目の前に広がる音符の数々に目を落とす。音には、その一つ一つへ対して曲に対する役割が割り振られている。学指揮を務める人間はその一つ一つを的確に理解して、演奏者に伝える必要がある。理想を示し、到達目標をイメージさせて、現状との差異を認識してもらう。その過程を無事踏む事ができたならば、遅かれ早かれ演奏者はそれを再現してくれる。その結晶がやがてひとつの音となり、ひいてはそれが良い演奏を、良い曲を作り出すことに繋がる。重要なのは、現在地と目的地を演奏者に伝える事。例えばこのE♭ひとつ取っても……

 「時間ぴったり。優秀な同期を持って烏藤は幸せだな。」

脳内で音符と戯れていたら、いつの間にか呼び出した同期が目の前に立って居た。彼の言う通り、到着はほぼ定刻通りだ。

「確かに優秀だねえ、相変わらず時間とお友達だなあ…。」

「同期を待たせるなんて無礼千万だからね。」

戯けたような言い方をして、時間に愛された同期こと、久遠は向かい側のソファーに腰掛けた

「このちっこい学食も難儀だよな、いつも面倒な話し合いをする度に戦場に選ばれてしまってさ。」

「だって立地も待遇も神なんだもん。クラブ棟から近すぎず遠すぎず、普段使いしない上にテーブルごとに仕切りまでついてるしさ。ドリンクバーもついてるし、もう長居してどうぞって言ってるようなものだよね。」

「まあ、一番は団員と偶然鉢合わせる可能性が少ないっていうのが、ありがたいポイントだね。」

彼の言う通り、キャンパスの中心から少し外れたこの小さな学生食堂を待ち合わせ場所に選ぶ時、それは決まって大事な話し合いを内々に執り行う必要がある時であった。しかし珍しい事に、今日はその限りではない。何故なら彼と待ち合わせた丁度30分後に、吹奏楽団全体での合同練習が予定されているからだ。今日は「30分でできるお話」を、彼としようと思っていた。

「水、持ってきてくれん?」

空になった安っぽいプラスチックのコップを差し出して、水分の補充を要求する。どうせ彼も、自分用の飲み物を持ってくるに違いないし、そんなに手間はかけさせないだろう。可愛げのない合理的思考そのものだが、今更同期に気を遣う必要もない。幸いそれは我々同期にとっての共通認識となっているようで、彼は何も言わずにコップを攫ってゆき、2人分の水分を調達してきてくれた。

 「そろそろ、団長候補、目処つけないとだねえ」

雑談を始める温度感でこの30分の行き着く先をそれとなく伝えた。30分で目指せるゴールなどたかが知れているが、それでも、何事においても、到達目標を相手に伝える事は大切だ。

「俺は烏藤がやるのが丸いと思ってるけどね。」 

件の安っぽいコップを人差し指でコンコンと叩きながら、彼は言った。

「そう、烏藤がやるのが『丸い』んだよ。僕はそう思ってる。団長はあらゆるシチュエーションにおける各々の役割を的確に理解した上で、それを的確に団員へ伝えられなければならないからなあ。それができるのは『この吹奏楽団を特に良く理解している人間』だと思うよ。」

意外にも、彼は至極ストレートにその答えを共有してきた。否、意外にも、という表現はこの場合適切ではなかったのかもわからない。彼は、久遠という男は、自分が見える範疇のさらにその先の、人間の奥底を覗いているような奴だ。大方自分の、烏藤という人間のバックグラウンドを理解した上で的確な意見を最短ルートで此方に提示したのであろう。

「そうかあ。まあロジック的な部分は、言っている内容の意味自体はわかるんだけどねえ。何もわかってないんだよな、自分は。未だに、この吹奏楽団っていう団体がわからない。わからないから考えている。考え続けている。答えを探し続けている。それがきっと、それに懸けている時間が長いことがきっと、『吹奏楽団を理解している』っていう評価に擦り替わっているんじゃあないかって思うんだよ。確かに自分が一番、同期の中ではこの団体に時間を割いているとは思うしね。」

歯切れが悪い事を自覚しつつも、自分の「揺らぎ」を彼に伝える。

「自分が団長をやりたいなっていう気持ちがないわけではないんだけれど、寧ろ務まるなら喜んで務めるけれど、本当にそれが最適解なのかって、それが未だにわからないんだ。」

最適解を探すのはとても難しい。それが最適解だと思っても、それよりもシチュエーションに適した解答が用意されている事などいくらでもある。その度に、もっと熟慮を重ねるべきだった、もっと状況を精査すべきだったと、後悔の念は心と頭を容赦なく蝕んでいく。時間をかけて、考えに考え抜いて捻出した解答であるからこそ、自分にはその現実がひどく堪える。

「だから、実際問題、私自身わからないんだ、未だね。誰が団長をやるのが、自分達にとって、そしてこの団体にとっての『最適解』なのかが…。それを伝えるために呼んだのかと言われればそれもまた違うのだけれど…。」

柄にもなく溜息が口から漏れる。珍しく思考がまとまっていない。いや、寧ろまとまっていないからこそ、彼を呼んだのかもしれない。性質上、「最適解が自分の目に視えない命題」はその存在が辛い。心が辛い。

「まあ、丸いとか、ちょっと穿ったような言い方をしたけれど、僕は烏藤に団長をやって欲しいと思っているんだ。きっとね。君の元でなら、僕も自分の役割を存分に果たせるんじゃないかと、そう思っているから。」

彼はそう言って、コップの中に僅かに残った水を飲み干した。他人の答えが、自分の答えへの近道になるかは、どうやら今の自分には判断しかねるようだった。

 その後は、何故か他愛もない世間話と、少しの業務連絡で持ち時間を使い切ってしまい。我々は幾多の戦禍に巻き込まれた学生食堂を後にした。

 「失礼しますっ。」

団員が各々の楽器を温めはじめて、熱気が篭り始めた練習室へ、声を張って入室する。

「「「こんにちはっ。」」」

後輩達が立ち上がって、自分の入室と同時に挨拶の発声をする。応援部の一員としての、この半ば儀式的な慣習も準幹部ともなれば見慣れた光景となる。練習開始時刻まであと10分。少し到着が遅れてしまったか。そう思いながら急いで楽器を組み立て、少しずつ呼気を入れていく。良い音を奏でる為には相応の下準備がいる。特に、外気温が低い冬場は管全体を温めて安定した状態をキープしないと、ピッチ(音程)が合わない為、コンディションを整えるまでに普段よりも多くの時間を要する。即ち10分程度では充分に管を温めることができない為、練習室への10分前の到着は、練習への実質的な遅刻と同義であるのだった。

 「遅かったですね、講義、長びいたんですか?」

遅めの到着を憂いた直属の後輩から、最低限の配慮を伴った指摘を頂いてしまった。

「うん、まあ、そんなところだね。」

目を細くしながら、謝意を込めた当たり障りのない返答をしておく。最近、どうも後輩達とは壁を作ってしまいがちだ。彼らが新一回生として入団してきた頃は、それはもう手厚いサポートと丁寧なコミュニケーションを以て直属の先輩後輩としての関係を大事に築いたものだが、最近はその礎に甘えて、充分に様子を見てあげられない自分が居る。どうしても手が回らない。中途半端に首を突っ込むのは良くない。今の自分にはもっと集中するべき事がある。色々な理由をつけて、後輩との関係を継続して紡いでいく、その責務を全うできない自分が、ここに居る。そうして、それを自覚しつつも現状を打破できない自分が、心底嫌いになりつつあった。

 「集合っ。」

練習開始の時間になった。56期吹奏楽団の団長が始令の合図を発する。

「「「押忍っ。」」」

自分を含めた団員全員がそれに呼応して、部屋の中央に集まる。楽器を静かに置いて、駆け足。応援を目的に発足した吹奏楽団は、他の音楽団体にはない特質的な雰囲気を纏って、その合奏練習をスタートする。この一糸乱れぬ一体感が、一つの音楽の形を創り上げる礎となっている。我々はこの塊の元に、一つの信念の元に、確かに音楽団体として成立している。

 迷える余地などないくらいにわかりやすいこの団体の中で、自分は何故今、得体の知れない悩みに取り憑かれて、その歩みを迷わせているのだろう。不意に全身を刺したような痛みが襲った。それが精神的なショックによるものだと自覚するまでに数瞬を要した。自分には何かが足りていない。今、自分が応援部専属吹奏楽団の一員として、その役割を全うする為の燃料が、確かに足りていない。そこで歯車の一部たり得る意味が、今の自分には何故か足りていない。漠然と、そう思った。ブレス練をしながら己のキャパシティ不足を憂い、チューニングをしながら己の精神力の低さを憂い、ロングトーンをしながら己の人間性の欠如を憂いた。そうしてスケールを奏でる頃には、いつの間にか自分がその音階の垣根を越えて、離散していく感覚を味わいながら、機械的な呼気の往復で必死に楽器を鳴らして、形式的な音楽を外界に放出していた。

 最近はいつもこうだ。「神の視点」に立って、この団体の今と、その未来への道筋を見通す事に熱中するがあまり、「人の視点」を忘れてしまう。しかしながら自分自身は、神に御身を捧げるのではなく、人にそれを寄せるべきだと、理解している筈なのだ。とどのつまり、自分はリーダーであろうとすればするほど、自分が自分で居られなくなるという事実に、やっと気づき始めていた。即ち、神になる為の鍵の形を思い描いていたら、いつのまにか人である為の鍵の形をすっかり忘れてしまっているのだ。

「烏藤、最後のB♭のリリースの仕方が甘い。低音楽器のリリースはバンド全体の音楽を支える大事な役割だ、もっと集中して、針に糸を通すような気持ちで息をコントロールしろ。」

音に命が宿っていないのがバレたのか、学指揮の先輩から名指しで注意を受けてしまった。

「はいっ、すみませんっ。」

猛省の意を口にして、楽器に温めていた息を吹き込んだ。もう既に、今日の基礎練習は終わりを迎えようとしていた。ふと、一列前で一際命が見える音を奏でているソプラノサックスが目に入った。とても人間味のある音は、何層にも重なった音の集合体の中で煌めいていた。それを吹いている久遠という同期には、やはり自分に足りない要素を埋め合わせるパーツのような何かがあるのだと、その時、確かに再認識させられた。

 なんとなく、それが失くした鍵の形をしている気がして、頬を水滴が伝った。

 以前、久遠に言われた事がある。応援部は人でできている。部員だけでなく、その活動に携わっている全ての人のおかげで、応援部は走り続けられる。だから応援部を運営する我々は第一に人を大事にしなければならない。人との関係、つながり、コミュニケーション。常に全力で、それだけは疎かにしてはいけないと。それに失敗した時、我々の足は止まってしまうと。そう、言われたことがある。

 久遠という人間は、そういう意味で応援部において居なくてはならない存在だった。端的にいえば、コミュニケーションがうまい人。側から見たら、お友達が多い人。人を大事にしなければならない団体において、「人を大事にする事の重要性を理解した上でそれを実現できる」人間だった。勿論、自身にも人並み以上のコミュニケーション能力は備わっているし、友人も少なくないと思う。ただ彼の特質は、我々一般人のそれとは確実に一線を画した才能であった。その本質を看過する事は、分析して理解する事は、それは言わずもがな、容易な事ではなかった。

 何故彼は、コミュニケーション能力に長けているのか。それを理解する為には、まず彼のコミュニケーション能力が「どのように高いのか」を考えなくてはならない。一般的にコミュニケーション強者とは、対人間(たいじんかん)における情報共有や意思の疎通をスムーズに行う事ができる者の事を指すのだと思う。これは単に社交的、外交的であるということではなく、コミュニケーションが双方向の物である事を理解し、自身と相手との距離感を適切に保つ事ができるということである。ただ単に社交的な人間とコミュニケーションが上手な人間というのは、本質的にその価値が違うという事を我々は理解しなくてはならない。勿論、件の久遠は後者に該当するわけで、相手の気持ちを察したり、言葉のキャッチボールをしたりするのが上手であり、第一者・第二者間におけるコミュニケーションのクオリティーが非常に高いのである。

 肝心なのはここからである。彼のコミュニケーション能力は第一者・第二者間におけるそれに留まることを知らず、第三者としてのコミュニケーション、ひいては集合体の内部における個としてのコミュニケーションにおいて発揮される。具体例によってその特質を形容するのであれば、それは「久遠が参加している会議や議論は必ず短時間で成果をあげる」という事になる。どういう訳か、彼がコミュニケーションの歯車の一部となった瞬間に、その物事は良い方向に進みだす。信じ難い事実だが、これを言語化するなら、久遠はその場にいる全ての人間の間に存在しているコミュニケーションを、全てコントロールできるという事になる。そんな事が果たして1人の人間にできて良いのだろうか。それが本当だとすればその特質は、もはや神の御技、我々が感知できる範囲外の領域に位置する代物に違いない。

 「どうしてそんなに、皆の考えている事がわかる?」

我々がまだ一回生だった頃、初めて応援部で学年会議を設けた際に、その帰り道の途中で、不思議に思って久遠本人にその理由を尋ねてみた。本質を他人に訊くというのは、もはや御法度と言ってもいいような禁じ手のそれだったが、考えても考えても、どうしても視えなかった為に、恥を忍んで本人に訊いたのだった。

「ああ、烏藤には全員のコミュニケーションを意のままに操ってるように視えてしまうのかな。なんでそんな事ができるのか、不思議で不思議で仕方ないって感じだよね。」

その時の久遠の返答は衝撃的すぎて今でも忘れられない。

「本人にきくのは本当はダメだけど、でもどうしても知りたい、本人に尋ねるしかそれを知る術はない。そういう風に考えたから、直接僕に訊いてきたんだよね。」

全部、見透かされていた。背筋が凍る思いだった。当時はまだ、常に仮面をつけて、自身の本質を曝け出さずに、同期と接していた自分にとって、仮面の下の、そのさらに裏側までをも見透かす事ができる人間がいるという事が、もはや自分にとっては信じ難い事実だった。

「これが答えみたいなものなのだけれど、」

久遠はそう続けた。

「僕、結構相手の気持ちとか何を考えているかとか、そういう心情的な情報が、絵に描いたように、否、まるでホログラムを投影するかのように、Z軸のその先までわかってしまうんだよね。表情とか仕草とか、使って今る言葉とか抑揚のつけ方とかそういうの、よく見たり聴いたりするとその裏に透けているその人の本質が視えてくるんだ。」

ここまで言ったらわかるかもしれないけど、といった具合に彼は肩をすくめた。

「そうするとさ、その時その人がどういう結果を求めているのか、とか、自分が何を言ったらその場が丸く収まるのか、とか、そういう『ハッピーエンド』への道のりみたいなものが逆算出来ちゃうわけ。それを順番通りになぞっていってるだけなんだよ。そんなに難しい事じゃないと思う、烏藤も一対一とかだったら無意識的にやってるんじゃあないかな。」

どうやら、そういう事らしかった。そして、「一対一とかなら」という彼の言葉から察するに、彼はそれを何人も参加している話し合いの中で、平然とその全員のバックグラウンドを覗き見して、そのフィールド全体の最適解に辿り着く事ができるという事らしかった。さながら照魔鏡のように、彼から視た我々の背後には、その本質が映しだされた景色が、さながら3D模型のようにして存在しているのであった。そうして、その事実を目の当たりにした自分の顔が徐々に引き攣っていくのが、彼にバレない筈はなくて、その恐ろしい特質の絡繰のヒントを、久遠はもう少しだけ語ってくれたのだった。

「これだけ聴いたらエグい事やってるように見えるかもしれないけれど、少なくとも僕は基本的にマルチタスクが苦手だから、全員というか、全体の流れを一度に把握する事はできないんだよ。だから烏藤には『全員のコミュニケーションを全部操っている』ように見えているかもしれないけれど、実はそうではなくてね。例えばこの会議の中心に居そうな人だったり、ゴールに近そうな人だったり、自分が干渉しやすそうな人だったり、まあその辺りは場合によるけど、数人に的を絞って、そこからゴールへの近道を見つけるんだ。だから、大人数の中でそれが出来るのはある程度彼らと知り合って時間が経っていないと難しいし、会議の内容とか方向性とか、その辺も把握してないと厳しい。烏藤にはわかると思うけど、準備にめちゃくちゃ時間がかかっちゃうんだよね。ちゃんと相応の代償は払っているんだよ。」

人間だからね、と、彼はそう言って、自分のことを夕食の席へ誘ってきた。なんとなく納得してくれたでしょう、この話はもう終わり。美味い飯でも食って楽しい話でもしようと、その時、彼の目はそう言っているように視えた。

 後に風の噂で、久遠のバックグラウンドやルーツを知る事になった。やはり人間という生き物は幼少期から思春期にかけてそのライフハックを培う場合が殆どであるらしく、つまり彼もまた「他人の顔を伺う」術を身につけなければいけない境遇に長期間置かれていたという事なのだった。「他人の顔を伺う」だけではなくて、「本音を透かしてその実現までの最短ルートまでを視る事が出来る」彼の特質は、裏を返せば過去に彼が居た環境がどれほど凄惨で過酷なものであるかを物語っていた。それでも腐る事なく、曲がる事なく、ここまで自分を立して生きてきた久遠が「応援部は人でできている」と、そして「人との繋がりを疎かにしてはいけない」と言うのだから、その主張には有無を言わさぬ説得力があった。

 今思えば、彼は自分と二人きりの時に私の目の奥を見つめながらそう言っていた。その時の彼には、何が視えていたのだろう。どこに辿り着く為の言葉だったのだろう。私の何を見透かして、そんな事を言ったのだろうか。 

 その日は、練習が終わってから、まだ済んでいなかったスコアの譜読みに勤しんだ。狭い部室で作業をするのは正直得策とは言えなかったが、終わるまで部室に籠ろうという気概で、日付が変わる頃までその灯りを煌々と光らせていた。練習が終わった後の部室からは一人、また一人と少しずつ人が減っていき、最後には自分と久遠が残った。彼は彼で、何か別の部活動に関するタスクをこなしているようだったが、途中から学科の課題に手をつけはじめたあたり、どうやら自分の譜読みが終わるのを待ってくれていたようだった。そうして、我々は同じタイミングで部室を後にした。ただ「おつかれ、また明日」と、声を掛け合って別れた。どうやら、他者に影響を及ぼす事でその状況を前進させる『プロモーター』が、今夜選択した答えは「何も言わない事」であるらしかった。

 もし何か言われていたら、今の自分は正気を保って居られなかったのかもしれない。そんなことまで見透かされている事がなぜか悔しくて、歪んだ視界を空に映した。星がおどろおどろしく揺れていて、今にもそれは地上に降り注いできそうだった。

 

第3章 コントローラーの本質

…………ブウウ――――――ンンン――――――ンンンン………………。

 少し前に薄々と眼を覚ました時、こうした蜜蜂の唸るような音は、まだ、その弾力の深い余韻を、その耳の穴の中にはっきりと引き残していた。それをじっと聞いているうちに……なんとなく今は真夜中だな、という気がした。そうして、誰か煩い奴が携帯でも鳴らしているんだな……と思い思い、又もウトウトしているうちに、その蜜蜂のうなりのような余韻は、いつとなく次々に消え薄れて行って、そこいら中がひっそりと静まり返ってしまった。

 フッと眼を開いた。木目が一様に並んだ、黄櫨色(はじいろ)の天井が見える。真っ白な蛍光灯が煌々と、その部屋を照らし続けている。ベッドにその身を移した覚えはないが、久々の休日だという事で少し気が緩んでいたらしい。長い間、惰眠を貪ってしまったその身体には若干の気怠さと背徳感が沈降しているようだった。片目で携帯電話の通知を確認すると、同期の貴志から、LINEに13件連絡が入っている。時刻は午前2時46分。真夜中も真夜中に何の用事があってこんなに文章を打ったと言うのだろう。まあ、電話がかかって来ていないということは少なくとも急を要するものではない筈だ。短絡的に考えてメッセージの内容を確認しないまま、上半身を起こした。視界の隅に青碧色のハチマキが映る。自室にいつも飾ってある、いつも通りの風景の中に溶け込んだいつも通りのそれは、妙に今の自分の眼に映えて見えた。   

 それは高校時代、当時所属していた応援部で使用していたハチマキだった。中央には随処為主(ずいしょいしゅ)という四字熟語が真っ新な白色の糸で縫い込まれている。置かれた環境に翻弄される事なく、自身の意志と信念に基づいて行動する生き様を示した言葉だ。協調性にステータスを全振りしたような学生時代を過ごした自分にとって、その主体性に重点を置いたスローガンは本質的な意味において理解することが難しかった。揺るぎない、確固たるミッションが設けられた団体の中で、果たして個々の意志とは、各々の信念とは、果たして何なのだろう。何である事が正しいのだろう。一つの大きなミッションに根ざして、その共通意志と信念の元に全力を尽くすのが美徳というものではないだろうか。そういう意味において随処為主というのはあくまで綺麗事であって、ある種「建前的な」スローガンなのだろうと思う。少なくとも、当時はそうと信じて疑わなかった。或いはそうでない世界線が存在するならば、その世界線に生きる自分は、その意志と信念について考察するというタスクを抱えているのかもしれない。それでも、自分がどの世界線にいるのか、わかっていないふりをしながらも、たった今その目に色濃く映るのは、青碧色のそれなのであった。

 今日は早朝から吹奏楽団の練習がある。もう一度、夢に堕ち直すのは得策ではないらしい。久しぶりに頭を空にして、楽器を吹きに行こうか。思い立ったら吉日、外界へ飛び出す準備を整えて、寒空の下にその身を晒す。雲一つない、微かに色づき始めた空に、キラキラと輝く一等星がみえる。こんな時間にあんなに光っているのだから、所謂明けの明星という奴なのだろう。あんなに高い場所からこの世界を見下ろす事ができたら嘸かし気持ちが良いだろう。きっと、この広大な大地に奔走する人間達の十人十色な意志とか信念とかが、それはもうカラフルに彼方此方で交差して、その日その時その場所でしか見られない色味を目一杯鑑賞できる筈だ。そうして、白んでいく空を見上げて妄想に身を委ねながらふと気になってしまう。今、自分は何色と呼ばれるのだろう。意志も信念も、何もわからないこの愚かで浅はかな一人のちっぽけな人間は、果たして何色に彩られているのだろうか。今この世界で、この応援部の吹奏楽団という、真っ新な下地の上で、自分は何色である事が良いのだろうか。正しいことなのだろうか。それがわからないというのであれば、若しくはそれは自分がその世界に必要ない色であるという答えが存在するのかもわからなかった。

 そうやって、わざわざこんな冷たい風の最中に自身の肌をあてながらあられもない妄想に思考を捗らせるこの愚行こそ、どうやら自分の、碌でもない意志と信念の元に成立しているらしかった。それだけは、なんとなくわかった気がした。

 『夜分遅く失礼します。吹奏楽団二回生の貴志と申します。この度は来たる演奏会に向けて当団の編成の幅を広げるべく、新しい楽器の購入について提案させて頂きたく連絡申し上げました。弊団はこれまでブラスバンド編成を原型とし、金管楽器及び打楽器をメインに据えて活動して参りました。屋外での応援演奏を第一の目的と捉え、少人数でそれを成立させる事に置いてこれは至極理に適った編成であった事と存じます。しかしながら近年弊団を構成する学生数は増加傾向にあり、活動範囲もメインの応援演奏に加え、演舞演奏会や激励会などの屋内演奏まで拡がりつつあります。つきましては、この機会に弊団にて扱う楽器の種類を増やし、その演奏に奥行きをもたらす事は一考の価値がある物と思われます。…………』

 貴志からの連絡は、個人宛に送信されたものではなく吹奏楽団全体の連絡用グループに投下されたものだった。正直、長文駄文乱文のそれで、頭が痛くなりそうだったので途中から読むのを辞めた。ようやく昇ってきた太陽が部室の窓ガラスを通り抜けて、チリチリと、髪の毛のその先を燃やしているような感覚を味わえそうだった。そのまま、このメッセージと徐々に増えていく既読ごと燃えて無くなってしまえば良いのに、とも思った。身体は沸るように熱いのに、背中を流れる汗は冷たい。小刻みに震えたままの指先は机の上に置いてあるスコアの端を無意識になぞっていた。さながら華氏451度の空間で、勝手に燃え始めた書物のように、その心と身体は曖昧に不透明に、燻んだオリーブグリーン色に染まっていくようだった。そうして、これ以上時間をかけて自らの思考回路がショートする前に、その指は携帯電話の発信ボタンに触れていた。ほどなくして通話口に現れた声の主に向かって、その唇は冷淡に、酷く大人びたような口調で、集合の令を命じた。

「今すぐ、部室に来て。なるべく早く。」

「どうせ、今日9時から練習だから、そのうち行こうと思うけど。急にどうした。」

「良いから、早く来て。話したい事があるの。」

「良いからって、こっちはさっき起きたばかりなんだけ….」

 みなまで聴かずに、その親指は再び通話ボタンの上に置かれていた。これ以上、電波の上で会話を続ける気には到底なれなかった。

 ある種メタ的な話題なのかもしれないが、否、もはやこの考え方がメタ的な思考である事は間違いないのだが、怒りという感情を言語化するという事は非常に難しいのだと思う。自分が何に怒っているのか、何故怒りという感情に縛られているのか、それをどうやって自分の中で消化していくのか。改めて説明する事を試みると非常に難解な問いである事に気づかされる。そもそも、怒りという愚かで取り留めのない感情を自分自身がしっかりと理解して自分のものにしているのかどうか、それすらも怪しいところではある。即ちそれが正であるとするならば、その言語化がままならないのは当然の事であって、言語化が容易にできない得体の知れない感情に取り憑かれたままでいる事ほど愚行であると言う事は、もはや言語化するまでもないだろう。詰まるところ、今の自分は非常に愚かで、どうしようもなくて、救いようの無い馬鹿野郎だという事だ。でも、この救いようの無い馬鹿野郎であるところの自分という人間は、自分が本当に愚かで馬鹿で間抜けであるということに、本当の意味で気づく事が出来ないでいるのだ。だからこそ、自分は愚かで、その愚かな自分にとって、怒りという感情を言語化するのはとても難しい事なのだ。

 詰まるところ、どうやら自分は怒っているらしかった。怒りに打ち震えていた。どうしようもない、感情のやり場に困って、困って、困り果てていた。まるで、自分が精神的に向上心のないバカである事を友人に突きつけられた時のように、腑の底が煮えくり返っていた。それだとまもなく、自分は遺書を書いて自殺してしまう事になってしまうが、現実的な向上心に事欠かない強靭なメンタルが祟って、その必要はなさそうだった。寧ろ、友人Kは貴志の方なのだから、遺書を用意するのは彼の方なのかもしれない。そんな戯言を弔いつつ、少し泣き出しそうになるのをグッと堪えて、その元凶が部室のドアを開けてやってくるのを今か今かと待ち構えた。

 ふと、一際強い硝煙の匂いが鼻に触った気がした。一瞬我に返って、いよいよ位置が高くなってきた太陽を下から覗いてみた。特に可笑しな様子は確認できない。大方現(うつつ)の狭間で、何か大事なものが燃えでもしたのだろう。世間一般的には、これを「堪忍袋の緒が切れる」と表現するのだと自身が理解する為には、まだ時間がかかるようだった。

 意外にも被告人は召喚の要求から15分と経たずに部室の扉を叩くに至った。貴志の家からこの部室棟までは、自転車で10分程かかる筈であるから、呼び出しから僅かな時間で家を飛び出してきたことになる。自分に言わせてみれば、犯した罪の重さを十分に理解していると言えよう。兎にも角にも、本当にその自覚があるのか彼に訊いてみない事には話は始まらない。

「なんであんなにデリケートな問題を吹奏楽団全体のグループLINEに投げたんだ?しかも真夜中に。自分が非常識な事してる自覚、あるの?」

部室に入ってきた貴志に何か言われる前に、単刀直入に本題だけを伝える。否、問い詰める。

「ああなんだ、やっぱりその事かよ。お前その様子だと最後まで文章読んでないだろ?」

彼はある程度用件に当たりをつけていた、と言わんばかりに言葉を翻した。

「だからさ、昨日俺が夜ネットオークションでな…」

「だから、じゃなくて、ちゃんと質問に答えろよ。」

真面目に質問に答える気のない彼の言葉を遮って、再度問い詰める。

「真夜中に、部員全体に周知するべきでもない、デリケートで精査が必要な話題を、わざわざLINEに載っけた、その非常識さがお前には理解できてんのか、ってそう訊いているんだよ。」

「非常識非常識、って煩いな、そんな熱くなるなよ、どうした急に。だから、昨日の夜、なる早で情報共有しなきゃいけなかったからLINE使ったんだって。もう読んで知ってると思うけれど、ネットオークションでこれ以上ないくらい良条件のフリューゲルホルン(トランペット・コルネットと管長・音域が同様でありながら、それらより太く柔らかく、深みに富んだ音色を生み出すことに長けた金管楽器)見つけたんだ。各パーツ損傷なしで5万強だぞ。楽器の肌色もウチの団体に合ってるし、これからの演奏に深みを追求する上でもなくてはならない種類の楽器だと思う。オークションっていう形式だからこそあーやって無理やり議題を動かしたんだ。そうでもしないと落札されちゃうかもしれないだろ、こんな良物件。お前の方こそ、こっちの意図汲む気あるのか?もっと真面目に思考しろよ。」

どうやらまともな議論にはなりそうもなかった。それでも、この怒りの感情を棚の上にあげて冷静に彼を、そして自分自身を諭す気にはなれなかった。寧ろ、次期リーダーを決めなければいけないという重要なこの時期に、まだこんな事を同期と言い争わなければならないという事実に反吐が出そうで、建設的な議論など交わす気などさらさら湧き起こらなかった。勿論、このまま突っ走ったら間違いなく泥沼だという事くらい分かっていた。しかしながら、目の前に立っているのは同期だ。先輩でも後輩でも部外者でもお偉いさんでもない。かけがえのない同期に気遣いなどし始めたら、それこそもう自分達は終焉だ。もしかしたら今の感情的な自分を正当化したいだけなのかもしれない。でも、そうだとしても、同期とは真正面から当たらなければならない。それが出来ないなら、私はリーダーにはなれない。いいや、自分達の中からリーダーを樹立する事そのものが、出来ない。だから自分は今、貴志と最後まで殴り合わなければならない。この馬鹿な同期にそれを分かって貰わなければならない。どんな手段を使ってでも。

 「この期に及んでそんな馬鹿な事をしているから、非常識だって、そう言っているんだ、貴志。」

「まず第一に、貴志が提示した議題の重要性は、よく分かっているつもりだよ。ウチの編成だと人数の割に音圧に欠ける点、活動の幅を拡げる上で避けられない楽団員一人一人の役割の見直し、ひいては役割の拡張、老朽化した楽器の管理。ミクロ的なソフト面の課題が山積みなのは見るも明らかだけれど、その裏にマクロ的なハード面の課題がある事もまた、少し真剣に弊団の未来を考えればわかる事だからね。」

つまり、我々が所属している応援部吹奏楽団という団体は「応援をする団体」でありながらも「演奏をする団体」であらなければならなかった。そして、深い歴史の中で「応援をする団体」の一部分であった我々は今、「演奏をする団体」としてのアイデンティティを確立する使命を与えられているのだった。「他者を応援する」という行為を真剣に考察した事がある人間がこの世の中に果たしてどれだけいるのか想像もつかないが、「声をあげて他者を応援した事がある人間」は存外少なくないのではないかと思う。中には手を振ったり御守りを渡したり、はたまた間接的に天に祈ってみたり、激励の手紙を書いてみたり、その応援の形態は多岐に渡るものであろう。では、その応援に「音楽」が必要だと感じた事がある人はどれだけいるだろうか。本気でその人の為に、その人が勝てるように、その人が成功するように第三者が行う応援という行為に、果たして音楽は要るのだろうか。単純で残酷な話だが、答えはノーに決まっている。即ち、応援という行為それ自体にとって、音楽はマストな存在ではない。だがしかし、きっと応援される人にとって、そこに音楽があったら、一生懸命音楽を奏でる人が居たら、それは「嬉しいこと」である筈だし、気持ち割増で、その応援はその人の背中を押してあげられる存在であれるのかもしれない。応援を生業にする弊団にとって、音楽とはそういう、役割が曖昧でありながらも、その応援に意味を借りて本質を返還する、化学変化における触媒のような存在なのであった。否、そうでなければ存在し得ない儚い存在であるからこそ、その存在を必要不可欠な要素に昇華させる義務が、音楽に生きる我々には与えられているのであった。言い換えるならばそれこそが、応援という行為における「音楽のレゾンデートル」であった。

吹奏楽団がこの先、その地位を確立して応援部の一角であり続ける為に、その演奏クオリティの向上は必須事項だ。そしてその中で、実働可能な楽器の数と種類が明らかに少ない事は由々しき事態だ。おまけに満足にそれらを買い揃える予算も我々の手元にはないと来た。ではどうするか。我々の手の届く範囲内で、できる限り品質が担保されている安価な楽器を購入していくしかない訳だ。」

楽器の質というのは本当にピンキリで、用途に合った丁度いいそれを選ぶ事自体が非常に難しいが、殊「安価」という項を第一に考えた時に、楽器専門店で新品を購入するよりも遥かに低価格である程度の品質のそれを手に入れられる確率が高いのは「中古品」を購入する事だった。その為、我々吹奏楽団は上回生(幹部・準幹部)を中心に、丁度中古で良品質な楽器を求めて東奔西走し始めていた頃合いたった。そこで貴志が目を付けたのがネットオークションだったという訳だ。重要なのは、今が楽器探しを「始めた」ばかりだったという事である。

「だから、貴志がネットオークションに張り付いたのは賢い選択だと思うし、良物件が見つかった時に迅速に物事を進めなければならないのもオークションという特性上理解できる。強いていうなら我々が反省するべきは、オークションを利用する上で購入するまでの段取りを予め決めておかなかった事かもしれないけれど。」

貴志は黙ったまま腕を組んで、パイプ椅子の背もたれに寄りかかりながらこの話を聴いている。ここまでは別にどうでも良い。彼は間違ってなどいない。

 改めて一息ついて、前髪を掻き上げて、貴志の目を睨みつけて、そして言い放つ。

「重要な物事を議論する時、LINEを、特にグループLINEを濫用しちゃいけないって。あれ程言ったのに、なんでそれを軽々しくも犯しているんだと、そう言いたいんだよ、貴志」

そんな重箱の隅を突くような、という非難じみた顔色が貴志のそれから窺える。つまり彼にとって、それはたかが重箱の隅的な事象に違いないのだ。別にそれは良い。寧ろ世間一般的にも、恐らくこれは重箱の隅的な事象にあたるのだろう。懸念すべきはこの重箱の隅がハインリッヒの法則で言うところの300のヒヤリハットにあたるという事で、貴志がその事実を理解していないという点だ。

「何回も説明した気がするけど、LINEがどれだけ団体の膝を折るのに容易な凶器なのかって事を。それでも何度だって言い続けるけれど。」

もう、動き出した口は止まらない。

「そもそも議題を提示する側にはそれを回収する義務がある。だから、議題を提示する時にはその議題は回収できる範囲内で、回収できるクオリティのコンテンツでなければならない。要は議題を団体に投げる時には『回収できる算段を予めつけてから』議論に臨まなければならない。」

議題の提示というのは非常に難易度の高い行為だ。その議論には誰が参加するべきなのか、誰の意見が必要なのか、どの機関の了承を得なければならないのか、それをまず考えなければならない。何故なら議論には賞味期限があって、その賞味期限以内に議題を消化する為には、それに干渉できる人間の数を絞らなければならないからだ。賞味期限が切れた議題というのは、当初想定していたバックグラウンドや他機関との兼ね合い、スケジュールの管理などの観点から議題としての体を失い、ある種「混乱の種」とも言うべきトラブルメーカーになってしまう。干渉できる人間の数が増えれば増えるほど、そこには図らずも各々の損得勘定(感情)やエゴのような物が発生して収集をつけるのが難しくなる上、事態が刻一刻と変化してそれまでに進めた議論の意味が機能しなくなる可能性が高まっていくという訳だ。従って議題を提示する人間は、必要最低限、そこに関わる人間や団体それぞれの事情や都合を把握した上で、ある程度それらの雑念を管理し、迅速に消化する義務がある。そしてある程度「議論を掌握した上で」「理想のゴールへ議論を誘導する」事で、議題の提示者はその役割を完遂できるのである。

「つまり、今回貴志が持ってきた『ネットオークションで発見したリーズナブルな楽器を購入する』という団体への働きかけとも言うべき議論は、実際に購入までの段取りの中で関係する全ての人間に必要な情報を発信し、迅速に了承を取り付けて購入までの段取りを貴志自身が誘導できれば良いんだよ。その中で購入する事を吹奏楽団、ひいては応援部全体に周知する必要性があるという判断をしたのであれば『その判断を行った人間』が周知に係る議論を担えば良い訳だ。それが今回楽器を購入するというタスクを達成する為の最短ルートだろうと思うよ。」

「それを貴志は、端から吹奏楽団全体に情報だけを周知しちゃったわけ。これどうやって収集つけんの?全員から賛否了承でも取るんか?仮にそこでよくわからん意見なんか出てきた日にはそれ全部君が対応しなければならないんだよ?意味わかる?」

言うまでもないが、楽器を中古で購入すると言う行為にはしっかりリスクもついてまわる。試奏も叶わないし、楽器の状態も実際に精査しない事には本当の意味では分からない。最悪の場合、修理費が仕入れ値をゆうに超えてしまうケースだって考えられる。つまり、本件について「手放しに購入を推せないと考える人間」は少なからず存在する。勿論、自分自身も精査の必要はあると感じている。だがそれは、「精査する必要がある人間」がすれば良い事であって、全員が全員その議論に参加する必要はないのだ。

「それでさ、今後の活動展開とか、部の予算とかそういうバックグラウンドを全然把握していない下回生なんかにLINEで『僕はその楽器を購入するのは良くないと思いますー』とかなんとかかんとか返信されたら、それはもう君の手で収集をつける見通しは立たなくないか。それくらいわからんか?それともLINE上で君達最後まで議論するの?」

グループLINEを議論のステージに選ぶ事は、愚の骨頂に値するといえる。各々の考えている事を文章化し、その文章から言わんとしている内容を汲み取る上で、コンテンツの純度はどんどん低くなっていく。つまり、意見のすれ違いや、ニュアンスの受け取り方の失敗、議題の本質の消失など、議論を円滑に進める上で起きてはならない事がそこでは頻発する。極めつけに、そこには議論を先導する議長という存在がいないから、自然と議論としての体を為さない議論が発生する。即ち、グループLINEで議論するという行為自体、我々人間の限界を越えた代物であって、つまりはやるだけ時間の無駄で、ただただ新たなトラブルの種を生むだけの愚行であるという事だ。

「だから、怒ってるの。それで、訊いてるわけ。非常識な事してる自覚はあるのかってね。」


 今一度、貴志を問い詰める。


「そんな事もわからないのに、リーダーなんか務まるわけないだろって、そう言ってるんだよ。」


余計な一言であるのは分かっていた。分かっていたけれど、もう動いた口は止まらなかった。言い終わってから、硝煙の匂いと、そして背中を伝う何か冷たい感覚が頭の中を支配した。同じ感覚は数刻前に味わったばかりだ。この部室に人間は二人だけ。存在する感情も二つだけだった。この、張り詰めた空気を丸ごと喰ってしまえるような、そんなおどろおどろしい気配を身に纏って、彼は言葉を発した。

 貴志という男は、常に燻った現状を最速で打破して前へ前へと進んでいく奴だった。そこには、凡人の思考の遥か上を行く閃きと、それを実現するだけの並々ならぬ行動力が伴っていて、正に天才を絵に描いたようなスペックの持ち主であった。いわばそれは常識の範疇外に生きている存在であり、我々とは異なるロジックとルールの上を走り続ける生き物であった。その特質は良くも悪くも常に一貫しており、絶対に折れない彼自身の確固たる信念の元に、これまでも、そしてこれからも成立し続けるのであろうと思う。そういった意味で、自分こと烏藤という平々凡々な人間のそれを体現した存在にとって、貴志という人間の存在は何処か掴みどころがなくて理解するのが難しかった。ただ、それが自分よりも何段階か上の高次元の世界を歩いている、怪物のような何かである事はなんとなく肌で感じ取れた。それだけに、つまり、それが感覚レベルにおいて自分と貴志との差異を知覚させられるだけに、自分がその何段か上のステージにどう頑張っても立てない事への劣等感と、理解したくてもできない本質的な信念のそれに当てられ続けるストレスは並大抵のものではなかった。彼と知り合って初めの頃こそ、自身が愚かで、馬鹿で如何に井の中の蛙だったのかという事を理解し、消化し、そして自身の進化の糧に昇華してやろうともがき苦しんだものだが、間も無くそれは無駄な足掻きである事を理解できた。哀しきかな、それが理解できるくらいには、当時の自分の思考力は進化してある程度まともな代物になっていた。

 だからこそ、天賦の才を持ち合わせし者達が、平民でも理解できる犯してはならないポイントを蔑ろにする事は、どうしても許せなかった。自分なんかが憂うまでもなく、物事の浅はかさや愚かしさなど、呼吸をするよりも簡単に目に視えるだろうに。何故、わざわざそれに目を瞑るのだろうか。それが、一番理解らなかった。

 もう間もなく、今日の吹奏楽団の練習の準備の為に下回生がやってくる頃だろう。もう、直射日光は窓から差し込んで来ない。髪の毛が焼かれるような感覚はない。暫しの沈黙が部室を支配したその後で、彼は短く言葉を発した。

「馬鹿はお前の方だ、烏藤。まだ物事の本質も見抜けないのかよ、その目はさ。LINEの使い方なんて、心底どうでも良い事だろうが。今、限られた時間と金と持てうる人材の中で、何をする事が、何を考える事か大事なのか、もっと優先順位をつけて思考しろよ。目先の正解に囚われすぎだ。」

いつも通り、彼は凡人が理解できる言葉を綴らなかった。

「300を完璧に押さえて、29をやっとの思いで纏めた頃には、お前のキャパシティはもう無くなってるよ。それで頂点の1はパーだ。300の内どれかが疎かになってても良い。29がほとんどうまくいかなくたっていい。それでも、頂点の1だけを見ていればいい。それが落ちなければ下の329は極論どうでもいい。上だけ見てろ。」

そして、件のネットオークションで見つけたという、フリューゲルホルンの落札画面が映ったスマートフォンの画面を見せつけながら、言った。


「そんな事もわかんないから、いつまでも無能のままなんだよ。やる事やれるようになってから物を言え。」


 それだけ言い残して、彼は部室を出て行った。私は悔しかった。悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて仕方がなかった。もはや何が悔しくてなぜ悔しいのかわからなくなるほどその脳のリソースは残ってはいなかった。常に物事を判断し、最高効率で成功への軌跡を実現できるところの『コントローラー』である貴志と、対等に議論が出来ない自分が何より惨めだった。自分が間違っているとは到底思えない。しかしながら、結果に最も近い位置にいるのは、彼の方だった。

 

 それに気づくのと同時に、無能なそれは両手で顔を覆って、そのまま部室から飛び出し、一直線に駆け出した。すると前額部が、何かしら固いものにぶつかって眼の前がパッと明るくなった。……と思うとまた忽ち真暗になった。その瞬間に自身とそっくりの何かが、見るも無惨な姿で、光が消えた瞳をギラギラと輝やかしながら暗闇の中に浮き出した。そうしてお互いに顔を見合わせると、それは朱い大きな口を開いて、カラカラと笑った。悲鳴を叫ぶ間もなく、それは掻き消すように見えなくなってしまった。


 ……ブウウウ…………ンン…………ンンン…………。

 

第4章 アナライザーの本質

 

Character

 

烏藤唯桜(うとうゆら):私。

七生琳 (ななみりん):君。

 

Background

 

故郷。雪国。

 

 それはまだ私が「愚」と云う貴い徳に弄ばれて、今のように自分を理解って居ない時分であった。私には、私が何者なのか理解らなかった。既に応援部に身を置いて2年の月日が経とうとしていた。常に応援とは何かを考え、応援部が何故在るのかを考え、吹奏楽団の意味を追って、私がここで生きる意義がどこにあるのか、狂ったように探した。必死になってそれを探せば探す程、見つかるのは己の愚かしさと、突きつけられるのは自身のスペック不足という現実だった。それでもがむしゃらに一生懸命活動に取り組めば何かが視える筈であると、根拠のない希望を片手にここまでやってきた。やってきてしまった。今、私の目の前には何もない何かが広がっている。もう後には退けない、限界で最果ての地。この景色に呑み込まれて、そして私は入部して初めて、酷使してきた足を、その歩みを止めた。どうしたら良いのか分からなくなって、あの日、貴志と一方通行の戦争において不戦敗を喫した日、吹奏楽団の練習を終えたその足で、私は電車に乗った。どこに行くのかも、誰に会うのかも、何をするかも決めずに、ただこの自分の心に巣食う得体の知れない感情に言われるがまま、私は戦場を後にした。片道分の燃料だけを携えて、「無能」という名の人間の容れ物に拘束された私は、1年と248日ぶりに、思考することを止めた。

 「もしかして、ゆら!?」

急に名前を呼ばれて、我に帰った。どうやら見覚えのある駅のホームで、私は長い間佇んでいたようだった。師走も佳境、古の故郷はもう、真っ新な雪が辺り一面を染め上げる季節だった。頬に打ちつける風が劈(つんざ)くように身体の芯を通過していく、その手厳しさが酷く懐かしくも、そして温かくも感じられた。聴こえる筈のないその声の主はふっと私の髪の毛を撫でて、静かに隣の椅子に座った。

「久しぶりだねえ、りん。」

唯一の旧友と稀覯(きこう)の邂逅を果たした事実に私は若干の戸惑いを覚えながらも、心の底から湧き出る欣快至極の素直な感情には勝てずに、当たり障りのない日本語を選んで挨拶を返してみるのだった。暇乞をする間も無く彼女と別れてから実に3年弱の月日が経っていたが、どうやら君は何一つ変わっていないらしい。不意に目の前を舞う粉雪の一つ一つに、乱反射する街灯のそれをぼんやり眺めていると、私の頭には少々の安堵と哀愁が、しんしんと降り積もって行くようだった。

 もっとこの侘しさに黄昏て居たいと思った。ハタハタと金属の線路が鳴動している。仄かに木の駅舎が香る。依然として、粉雪は思い思いに輝いて、宙を舞い続けていた。1時間はそこに居ただろうか。いいや、10分足らずであったようにも、数瞬にも感じられる。自衛の為に退廃していた感受性は、久方ぶりに浴びる故郷の景色によって、これでもかというくらいに増幅させられていた。

 「ほんとにさぁ、猛省した方がいいね、唯桜。こんなにいっぱい『仮面』を持っているってのにさ、中身がこんなにボロボロなんじゃあね。」

急に、背後から腕を回された。心臓が高鳴る。時計台の正午の鐘の音の如く、私の身体中の器官にそれは共鳴して、私という容れ物の外へと飛び出して行きそうになる。この鼓動の高鳴りが、身体中に響く共震の感覚が、お前らに理解るか。否、理解られて、たまるか。粉雪は、舞わない。干くは、自制。満ちるは、本音。線路の向こう側から蝉時雨が聴こえはじめる。真夏の、あの高い位置から見透かすように降り注ぐ太陽光が、そこにあるのでは無いかというくらいに、今、身体中が熱い。

「これは経験談だけどさあ、唯桜。よく見える目はね、完璧じゃなくて良いんだよ。時には曇らせたっていい。前を見なくたっていい。自分を見なくたっていい。」

君は、語る。

「そもそも唯桜の目は私の目と違って、人の心の底を見られる、優しい目だからねぇ。」

「無理矢理、世界を、大局を、本質を、見やんとする、その決意は嫌っていう程理解るし、」

「実際、唯桜は中途半端に頭が良いから、本当に根を詰めて、突き詰め続けたらさ、見えちゃうだろうね、今まで見えなかった景色ってやつが。」

「中途半端に、本質が見えちゃうだろうねぇ。」

鑑である君は、語る。

「そうして、その目でいつの日か、自分自身の本質を見透かした時に、」

蝉時雨が止む。何も聴こえない。

「」

君の人差し指が、私の目元を静かに拭う。

「だからねぇ、唯桜。私は思うんだけどさ。」

遠くの方で、潮が満ちる音が聴こえる。風が吹く。私達を通り抜けて、それはずっと奥まで、ずっとその先まで吹いて行く。汗ばんだ身体と、湧き上がる焦燥感は、やはり私達の夏を思い起こさせる。十七の命を削りあって、各々が同じスタートラインに立って、全身全霊で、同じゴールを目指した。決死の夏。でも少し違う。この熱さは、その過程に伴う、意味ある熱さじゃない。そう思わされる。中途半端な私にとって、今この身体が全身で感じている熱さは、中途半端な私と結果に対する、浅はかで愚かで惨めな…………。

「意味が無いなんてことは無いよ。」

「寧ろ、常人が意味を見出せないそれに、意味を見つけることこそが、意味を見つけられることこそが、」

前任者である君は、語る。

 


「私達の本質であって、私達の生きる意味だ。」

 


 もう、私には満ち溢れる涙(ほんね)を堪える事はできそうもなかった。そういえば、まだ私が高校生になって間もない頃、担当のカウンセラーの先生に聞かれたことがある。「どうしたら、他人を信用できると思う?」という問い掛け。その頃の私には信じるという事がよく理解らなかった。今も理解らないかもしれない。でも、理解らないなりに、なんとなく境界線のようなものは自分でもイメージする事ができていた為、「信用している人の前では躊躇う事無く泣けるかもしれない」とその時、先生には答えた気がする。自分の一番弱っている姿。自分が弱者たる所以の象徴でもあると思われた涙というものを、秘匿せずとも大丈夫だと感じさせられる人間。それは、自分にとって信用に足る人間だと、未熟な感受性なりにも理解っていたのだと思う。第二次性徴における為人の形成に一役買った経験や考え方というのは、その後の自身を模る重要なピースになり得るもので、「涙の秘匿」は成人した今でも私にとっては大きな境界線のひとつであった。どんなに悔しくても、哀しくても、淋しくても、嬉しくても、涙を流しそうになると、私の脳は自動的にその感情を抑制せんと働くようで、急に冷酷で感情の存在しない、およそ人間とも呼べないような生き物へと、私は成り代わってしまうのだった。それはまるで「カフカの変身」に暗喩された普遍的な人間性の突発的な消失に類似した現象であったが、どうやら「人間性の消失」そのものを他人に悟られるのも私の脳は嫌がるようで、決まってそういう時には普遍的な人間の仮面を強制的に被らされた。その演技をする事は最早私にとっては日常茶飯事のそれであり、自身を偽るハウツーが洗練されていった結果、私にはいつの間にか必要な時と場合に応じて、自身がイメージできる最適な仮面を素顔の上に貼り付けて、日々を生きるスキルが身についていた。このスキルは卒なく日常をやり過ごすのに非常に便利であったが、翻って感受性の衰退と自主性の低下は否めなかった。世界を自分自身の目で直視するを恐れ、常に第三者視点で客観する事が常となってしまった。無論、それが有効に働く場面もあったが、やはり主観が必要とされるその時に、自身の汎用している視点との差異に酷く苦しめられた。それすらも悟られまいと、「客観視から導かれる主観の虚像」を用意してその場をやり過ごす有様であった。

 だから私は今、大粒の涙を流しながら、あらんかぎりの声を振り絞って思いきり泣いた。何故「持たざる者はこんな思いをしなければならないんだろう」と思った。ゼロに何を掛けてもゼロとは良く言ったものだが、無能がどれだけ努力をしたところで、その結果は有能のそれに遠く及ばない事は、もはや私にとっては言うまでもなく世界の真理であったし、実際、それは単なる劣等感とか嫉妬とかでは説明が付かない、フラットな事実ベース依りの、「人生の掟」と呼んで差し支えない事象であると思う。こんな世界が正しくてたまるか。こんな世界が現実であってたまるか。こんな世界が綺麗であってたまるか。文字通りそう感じた。それでも今、涙越しに私の目に映るこの景色には、私の拙い感受性を以て綺しいと言わしめる実力があったし、私には、一歩踏み出せば蛇と遭遇するか鬼に急襲されるか分かったものではないこの世界を麗しいと評せる実力があった。才能という名のチケットの持ち主と、欠陥という名のレッテルの持ち主とをこれまでずっと比べ続けて、痛いほどそのブランクに苦しみ続けてきた私だけれど、それでも私は、この愚かな人間達が暮らすこの禄でもない世界と、その中で精いっぱい生きている自分の事が大好きだ。そして、君もまたこの燻んだ世界に彩色を施すことのできる数少ない人間であって、その深みのあるそこはかとなく掴みどころのない瞳が、大好きであった。

 「ダメだよ、唯桜。そんなんじゃ、周りの才能に取って喰われちゃうんだから。」

いつの間にか目の前には、真っ新な粉雪が空からゆらゆらと舞い降りていた。

「自分の事を『持たざる者』だと結論づける行為にとやかく言うつもりはないけれど。勿論褒められたものじゃない、言わずもがなだよ。それでも、『持たざる者』が劣性だと評価しているのは頂けないね。唯桜自身がそう思わないようにしよう、無能は無能なりに相応の努力をして結果を補おう、ってそうやって考えれば考える程、反動的に『無能である事が罪で、無能である自分の存在価値の消失』を自覚してしまっている。浅はかだよ。愚かしいよ。その思考の過程全部が大罪のそれだよ。本当にその目はまだまだ甘いと思うよね。そろそろ気づいてくれてもいいと思うんだけどなあ、唯桜。頭では分かってるのに心の底から信じきれてないんだろうね。じゃあ、私が信じさせてあげるよ。唯桜。あなたの前任者の私が、あなたから全面的な信任を獲得している七生琳が、まだまだ未熟で『自信』が無い烏藤唯桜の為に、太鼓判を押してあげる。」

 今、私が最も信用している友人が、私の為に、私が生きていく為に、生きる為のヒントを提示してくれようとしている。そんな重要な、物語のクライマックスのようなシーンの真只中で、私の心は今此処に在らずと言った具合に、あてもなくらゆらゆらと揺蕩っている。私と君が出会ったその日から、君と描いてきた数多のシーンが今、私の脳内で走馬灯のように再生されている。その中で一際、私の目を引いて、心を離さない記憶がある。私達の目の前には、一本の歪な形をした大きな樹が生えている。これは、私が君と会話した、正真正銘、最後の記憶だ。そしてそれは、私が、今の「烏藤唯桜という生き物」として生きていく事を決めて、その一歩を踏み出した最初の記憶だった。あの日こそ、私が私たる所以を初めて自覚して、その一歩を踏み出した、私にとってのはじまりの日だった。

 何故、故人はそれを「蝉時雨」と呼んだのだろう。

 残暑もそろそろ鳴りを潜めようかというこの季節に、それでも尚、己が生命力を確かめるかの如く鳴き続ける蝉たちの声を、私はどこか懐かしさを覚えつつ聴き惚れていた。あの真夏の鬱陶しさとは裏腹に、どこか寂しげに、儚く分散するかのようなこのソルフェージュを聴くたびに、私の脳裏には「蝉時雨」という言葉が思い浮かぶのだった。無数の蝉が鳴く様を、雨が降る様子に喩えて表現したそれは、どこか洒落ていて、心なしか人を惹きつけるような語感が心地いい。君との最後の思い出は、この蝉時雨に紐づけられた記憶だった。その日は高校時代に所属していた吹奏楽部の夏季休暇最後の練習日で、私達は練習を終えたその足で、なんとなく帰路の庭園をぶらついていた。

 「なんかさぁ、他の人と違うんだよね」

七生琳はそう言って、烏藤唯桜の記憶に一つの種を植えつけた。

「唯桜もそう思うでしょ。きっと唯桜の目には周りの人間がさ、なんか自分と違うような存在だなって、そんな景色が見えていると思うんだよなぁ。」

その日私は、中学校を卒業した頃から、なんとなく心の奥底に巣食っていた得体の知れない感情の本質を、ピタリと突き当てられた気がして酷く興奮した。

「なんていうか、言葉ではうまく言い表せないけれど、どこか普通の人間とは異質なんだよね。物の見方や考え方、価値基準のそれが、普通じゃないんだよ。何を以て普通とするか、何が基準となるか、そんなつまらない議論に端を発する問題ではなくて。何か根本的な性質が、同期の子達とは違うんだと、そう感じさせられるんだよね。」

「決まってそういう時に、私の琴線に唯桜の思考が触れてくる事がある。唯桜だけなんだ、こんなにビビッと来るのは。きっと、おんなじ感覚を唯桜も同時に味わっているんじゃないかな。」

私は、わかるかもなぁ、とそっと嘯いて、君の白い肌に静かに触れた。なんとなく、この異常な為人(ひととなり)と稀有な価値観に取り憑かれて仕舞いたかった。彼女の言った通り、確かに七生琳という生き物とは、ふとした瞬間の意見の一致や、思考の同調を感じることがあった。決まってそういう時は、何故か「他の人には知られてはならないような」歪な感じ方を自覚している時だった。自分がこういう考え方をしているという事が他人に悟られたら、自分にとって何か不都合が生じるのでは無いかと、本能的に防御壁が築かれるような、そんな感覚を覚えている時だ。きっとこの感覚はどんなに頑張っても文章に熾す事はできないだろう。人間が、人間同士意思疎通を図る為に発明したこの言葉で表現する事ができないというのは、正しく的を射ていて、つまりそれは人間の理から外れた思考回路だったり価値観だったりするのだろう。即ち、私達はその瞬間だけは人間という枠組みの外に在る生物で、そしてその枠組みから各々が外れている事を、私達は各々自覚できたのであった。

 だからこそ、君が急に「他人と違う」という事を言語化して口に出して喋った時、非常に興味が湧いた。何故今更言語化できない話題を言語化したのだろうと思った。しかも「たにんとちがう」なんて、たった7文字でその違和感を評してしまった。尚更好感が持てた。当時の私は、何故そう思ったかを言語化できる程自由自在な語彙力を持ち合わせてはいなかったけれど、今にして思えばそれはやはり、それが本質の最適解とも呼べる表現であったからだろう。

「それでさあ、最近思うんだよね。この他の人と違うっていう感覚に触れさせられる度にね、嗚呼、この良く理解らない感覚を知覚できる特異的な遺伝子を後世に残してやりたいなって。なんで私はこんな価値観を持っているのか、思考回路を有しているのか。先天的な物なのか後天的な物なのか、それすらもよく理解らないけど、でもきっと、この世の中に生を受けて、そしてこれまで生きて来られているという事はさ、この異質な価値観とか思考回路とかにも、何かしらその存在意義があると思うんだよね。でも今のところ、私は一生分の時間を使ってもその意味とか理由を突き止められる気がしない。だから漠然と、この意味のわからない遺伝子を後世に残してやりたいと、最近そう思うんだ。」

急に突飛な話題を吹っかけられて、私は困惑した。しかしその混沌とは裏腹に、反論は非常に整頓された、現実味のある内容だった。

「私は手放しでは賛成できないかもなぁ。そもそも、こういう異質な価値観を理解してくれる人間なんて、この世の中に数える程しか居ないだろうし、もし自分と同じような価値観を持ってこの世に生まれてきたら、生まれてきた子は私と同じようにこの違和感を常に感じながら世渡りして行かなければならないんだ。そういう宿命を背負わせなければならない。正味酷な事だと、私は思っちゃうよ。自身の子に重い鎖を背負わせるような、そんな事はできない、私はそうやって考えちゃうかも、しれないな。」

当時の私はこのような価値観と思考回路に囚われていた。だから、もし自身が子を授かったら、その子を育てる時には、この価値観と思考回路が源泉となるビジョンしか思い浮かばなかった。それは私にとってみたら、私と同じようにこの違和感に苛まされながら日々を生きる犠牲者をまた1人、この世に増やしてしまう行為である訳であって、到底受け入れ難いというのもまた、事実であった。

「良くない癖だよ、唯桜。またそうやって仮面被っちゃってさ。良いじゃない、私といる時ぐらい仮面外してくれたって。」

七生琳はそう言って、いつの間にか目の前に立ち塞がっていた、大きな、それでいて少し歪な形状が毒々しい、一本の樹を指差した。

「あれ、見てよ。根上がり松って、人は呼ぶ。昔、偉い人がね、盛り土したその上に松の苗を植えさせてさ、そんで樹が成長してからその盛り土を取り除いたんだよ、わざわざ人の手でね。だからあんな歪な形をしているんだ、下の方が。上の方は流石、整備されてるだけあってすっごい綺麗に整ってるけど。でもかえってアンバランスでさ、下の方の根が浮いてるのが本当にゾクゾクするよね。あんなの違和感の塊だよ。これが自然による産物ではなくて人為的に造られた物だって言うんだからさ、驚きだよ。ねぇ、理解るかな、唯桜?、あれをさ、あんな事をさ、平然とやってのけるような人が、大昔には確かに生きていたわけだ。きっと私達は、そういう頭の可笑しな人たちの子孫なんだよ。」

捲し立てるように、頬を上気させて、彼女は続けた。

「きっとあの歪な形の樹を見て、所謂一般人は、まあ、不思議な形をした樹がこの世にはあるもんだって、いいとこそんなところ、そんくらいの感想しか思い浮かばないだろうね。理解らないだろうね、私達のこの感動は。この痺れるようのこの感覚は。そういう、マジョリティたる感受性から、ズレにズレた故人が、こんなデカいメッセージを現世に残してくれているんだ。そしてそのメッセージを受け取れる人間が今、ここに生きている。唯桜ならきっと理解ってくれる、この素晴らしい世界の中に紡がれている、本当に儚い奇跡の繋がりがね。この奇跡を途絶えさせる事が、どんなにナンセンスな行為であるか、この価値観を覚醒させた遺伝子の相続に有する私達の責任がどれだけ大きいか。そう思われてならないんだよ。私には。」

そうやって、一生懸命に背伸びをする七生琳と、その背中を望遠する烏藤唯桜、この17の未熟な身体に本質的な価値観を覚醒させて間もない、まだまだ獲得形質の一片すら把握し切れていない幼い少女達を、その伝導者たる歪な形をした大きな樹は、威風堂々たる存在感を以て静かに見守っていた。

 詰まるところ、七生琳という生き物は熱心な唯心論者であった。世界に存在する全ての事象と物質とを感知し、理解し、消化し、伝導できる精神が在ってこそ、この世界は成立してしかるべきだと、そう考えていた。ここで、七生琳と烏藤唯桜という容れ物によってそれぞれ獲得された、根上がり松をその本質的な意味で知覚できる価値観は、後世にその灯火のバトンを渡してこそ意味ある存在であり、繋いで初めて、根上がり松がこの世の中に存在し続けられると、七生琳は思考していたのであった。しかしながらその日、私の目には当たり前のように根上がり松が見えていた。他人の目にも同じように、物質として、そして植物という生物としてのそれが知覚さえされていれば、そこから何らかの世界が構築されていくと、私は思っていた。謂わば、当時の烏藤唯桜は唯物論的な感性で物事を考えていたし、己を感じていたし、世界の底を視ていた。だから、17の烏藤唯桜にとって、隣でその価値観の遺伝を熱く推す七生琳の主張には、どうにもその重要性を見出す事ができなかった。何となく、当時の自分の直感のままに「この遺伝子を後世に残す事」に抵抗を覚えて、それを芯に抱えて疑わなかった。

 


 突然の電閃に、打ちつけられた感覚がそこにある。

 


 私、何で泣いているんだろう。

 この心に、なんて答えたら良いだろう。

 君に、会いたい。

 


 紛れもなくそれは、私にとって青天の霹靂であった。あの日、君に植え付けられた種は3年の月日を経て大きな樹へと成長して、そして今、その根っこを覆っていた盛り土が破壊されて、樹の本質が露わになっている。私は、私の中に生えていた根上がり松のその本当の姿を見て、涙を流していたのだった。根上がり松を見ることができる自分の目から、溢れる涙が止まらないのであった。あの日見た根上がり松は正に、私の存在意義そのものであった。

 思えば、私はこの3年間、その未熟な目で多くの世界の本質を見てきた。本質を知る努力をしてきた。しかしそれは、本当の意味で、世界の本質とは呼べなかったのではなかろうか。その物体を通して本質を見透かすのではない。本質を知覚して初めて、その世界があるのだ。己の精神をその中心に同化する事で初めて、本当の意味で世界が視える。私は、否、私達の目は、この歪な価値観の元に、その価値観の真価を発揮する為に存在している。だからこそ私達の精神は、遺伝子は、それを以て故人の意志を汲む事ができるのであって、またその先の未来を知ることができるのである。未来に残されて然るべき価値観の、その本来の意味を物語っている。

「だから私は、今、生きているんだ。」

今は亡き、七生琳の魂を引き継ぎ、現世においてその存在を知覚できる希少な人間の一員として、今、「烏藤唯桜」はこの世界で最も存在価値のある精神の容れ物であった。君を知覚するという事は、その目の存在を肯定する事であり、その価値観を支持する事であり、その遺伝子を伝導するという事だ。即ち、君を知覚するという事は、本質的な意味において、私の存在意義を知覚するという事であり、認識するという事であり、継承するという事なのである。

 


『唯桜』

 


 急に名前を呼ばれたような気がして、我に帰った。どうやら見覚えのある駅のホームで、私は長い間佇んでいたようだった。師走も佳境、古の故郷はもう、真っ新な雪が辺り一面を染め上げる季節だった。

 

 まだ、耳の奥には蝉時雨の記憶が微かに残っていた。何故なら私は、烏藤唯桜という人間は、蝉時雨を知覚できる、稀有な遺伝子の継承者であるから。

 

 昨日は駅前の安宿に泊まった。安宿という名のネットカフェで一夜を明かした。気が付いた頃にはもう終電が無くなっていた訳だが、それ以外にもこの街で朝を迎える理由が、私にはあった。ポケットからAirPodsを取り出して、冷えた両耳に差し込んだ。イヤホンを付けている時だけが1人になれる瞬間で、外の世界の音を遮断してドラムのリズムで歩いた。今日は1人で構わない。1人で行きたい、場所がある。

 夜露に煌めく朝焼けが綺麗だ。この素晴らしい世界の上に一歩、また一歩と足を踏み出す、私という生き物がどれだけ尊い存在か。ひしひしとそれを実感する事ができる。

 舗装された道路を抜けて、山道を登る。積もった雪に足を取られないように、気をつけて。ずんずん。ずんずん。冬特有の、澄んだ空気に真っ直ぐに差し込んでくる太陽光を全面に浴びて歩き続ける。ずんずん。ずんずん。その昔、君とこの懐かしい道を登った記憶を右手に、故郷を離れて独りで新しい道を歩んだ経験を左手に。黙々と歩き続ける。ずんずん。ずんずん。

 そうして、小一時間登り続けたその先に、この街を一望できる小高い丘の頂上が見えて来る。もうすぐ目的地だ。私は丘の裏手にひっそりと立ち並ぶ墓石の一つに近寄って行く。

「やあ、琳。久しぶりだねぇ。」

そう言って、駅前から運んできた2リットルのペットボトルに入ったレモンティーを、墓石の上から豪快にかけてやる。生前、君が大好きで、しょっちゅう飲んでいた銘柄だ。

「まったくさあ、琳は知らないと思うけどね。この世界は本当に理不尽で、不条理で、非合理的で、まったくもって面白くない事この上無いよ。」

空になったペットボトルをくるくると回しながら、私は独り言ちる。

「それでも、琳が知っているようにね、私はどうやらこの世界が好きで、君の生き方が好きで、そんな私自身が大好きなんだ。この世界の本質を知覚すればする程、君が君であったその存在証明が確かなものになっていく。そうして私が私たる所以も同様に確からしい存在意義として、それを知覚する事ができていく。そういう風にできている。」

だからね、と、私は言葉を紡ぐ。

「安心して欲しいよ、琳。『アナライザー』としての七生琳の本質は、私、烏藤唯桜が引き継いだ。私が私である限り、君はこの世界に存在し続られる。この素晴らしい灯火をいつまでもどこまでも、この世界の果てまで運び続けるつもりだよ。」

 青空に線を引く飛行機雲の白さは、まるで私達の明日を知っているかのようにずっとどこまでも続いていく。未来の前に竦む心は、静かな声に解かれて、確かに、私達があるべき場所に導かれる。叫びたいほど愛おしい一つのこのいのちを胸に携えて。

 

君の肩に 揺れた木漏れ日。
私の指に 消えない夏の日。


さようなら、琳。

また会う日まで。

 

私は、再び戦場へ赴く。

まだ私には、現役の『アナライザー』であるところの私には、やり遂げなければならない事がある。

 

君が君である為に。

私が私である為に。


私は、私の使命を果たす為に、

あの戦場へ、舞い戻る。

 

第5章 レゾンデートルの看破

1. 破壊と創造

『核でオーロラが発現するならば、この世界の終末は意外にも幻想的な景色であるかもしれない。』

 私がこの戦場に足を返してから、実に3ヶ月が経とうとしていた。粉雪を伴って肌に差すような風の代わりに、今は桜の花の香りをフライングで強く吹き付けるそれがハタハタとトレンチコートの端を強く揺らしている。目の前に続いているアスファルトの上をゆっくりと歩き続ける。上の空で考え事をしながら、この微妙に濁った空を矯正するかの如く、視界に聳える人工物の存在を無意識的に知覚して、一歩一歩先へと進む。ふと、こうやって私の目が映す世界の一片を紙の上に描き起こしている自分の姿が瞼の裏に浮かんで、既視感とも違和感とも言えない非整合的な感覚を覚えた。そうして、言葉とは、一体この世界の何パーセントを2次元に変換して顕在化できているのだろうかと、素朴な疑問が脳裏を過った。

 世界を平面化して表現する方法といえば、例えば絵とか写真とか、直接視覚に訴えかける種類のものが真っ先に思いつくけれど、そういう手段を持ち合わせていながらも、人は何故言葉を綴るのだろうか。元々、言葉は聴覚に適応した表現手段であって、きっとそれを視覚的に用いる事はその副次的な使用方法である筈だと思う。それが仮に正の側の理論であるとするならば、特別穿った考え方をしなければ、それに対応する結論は、絵や写真では表現できない景色を描写する為に、という事になるのではないだろうか。要はここでいう「表現できない」というのは、存在しないとか、想像上のとか、そういう意味ではなくて、そこに在る世界に人の視神経を通して、既に一枚の絵として認識されてしまった景色の再認識の強要に起因する類の不可抗力を意味しているのだと思う。だから端的に言うならば、人は自身がトレースした世界を他人に再度トレースさせる為に言葉を綴っているという事なのかもしれない。そうやって絶対的なオリジナルを何度も何度も補完して、或いはオリジナルの見る影もないレプリカが人々の脳に再現されたとしても、それは実はレプリカなどではなくて、それこそが各々にとって各々だけのオリジナルの世界である事を素直に知覚するのが賢しい思考なのだと思う。寧ろ言葉という、人間にだけ許された特権を使って自身の許容範囲以上の世界を補完して認識する事で、私達は初めてその世界の中心に本質を見出し、消化して、そしてそれを元手にして再び世界を補完できるのである。これこそが、私達「人」が生きるこの世界における、「言葉」のレゾンデートルの大部分を占めているのだと思う。

 もしそうだとするならば或いは、私は本来的な意味で「言葉」を遣う事ができていないのかもしれないという思いが、高層ビルの間をすり抜けていく都市風と共に、私の体をすり抜けて行った。どうしても、考えずにはいられないのだ。私にとっての、本来的な意味においての、「言葉」というやつは、一体何だというのだろう。今、私は誰に、何を伝えたくて、この文章を書いているのだろうか。そうやって考えていると、眼前に広がるビル群が揺蕩う曇天の中にきらりと光る宝石が目に止まった。あの球体チックなフォルムは真珠だろうか。周りに金色のリングが揺れている。水面に拡散する波動のようだ。そのさらに外側に目を向けると赤みを帯びた耳たぶが、唯一、この人工物だらけの世界の中で柔らかく存在を主張していた。

「あの。」

気がつくと無意識に私の口からは言葉がついて出ていた。その女(ひと)は声をかけられたのが自分なのか半信半疑な様子で、でもゆっくりと私の方を振り返って、私の目を見つめた。視線の交錯。今この瞬間「私の世界」の中にその女(ひと)がパズルのピースのように降臨する。規則的な鉄筋コンクリートの中に唯一、温かみやしなやかさといった感性のリストがこの世界のインデックスに書き加えられる。今、私の視線はそういう感覚でその女(ひと)の視線との交錯を体感しているのだ。

「ごめんなさい、知り合いと間違えてしまって、」

少しだけ考えたフリをして、そのフリが果たして相手に伝わっていたのかわからないままに、私は謝った。目を細めて少し頷いて、その女(ひと)はそのまま背を向けてビルを掻き分けて行ってしまった。雲が切れて陽が差してくる。それはまるで、メタリックな人工物のそれぞれに反射して、私達の足元だけを少しだけ強く照らしているようだった。

 

…………ブウウ――――――ンンン――――――ンンンン………………。

 

 掌の中で携帯電話が鳴っている。片目を少しだけ落として、画面を覗き込むと、着信は実父からだった。今、彼と言葉を交わすほど私には余裕が無いと本能的に感じて、その着信は見なかった事にした。私にとって、彼の言葉は、彼の世界に私を縛り付けられる鎖のようなものだった。どうせ彼には、そんなつもりなど毛頭ないのだろうが、人間の核心を突くような、否、核心を突かれたと本人が錯覚するような物言いをするのが、彼は得意だった。議題がなんであろうと、それが例えば、今日の夕飯の主食だとか、普段使いする歯磨き粉のメーカーだとか、どんなに小さなものであっても、自分の世界をテーブルの上に展開して、その周りに座る人間を、それぞれの椅子に縛りつけてしまう。そうして、彼の世界の中で最も正しいと思われる回答を、四方に座っている人間に半ば強制的に提供するのである。それはもはや、議論の体を為してはいないのだが、これが皮肉なもので、彼自身も議論を行うつもりなどさらさらなかったのだと、大人になってから気がついた。第一者も第二者も、場合によっては第三者も、議論を行うつもりなど無いのに、では何故それが議論の体を為していない事に第ニ者が違和感を感じるのかといったら、それは、第一者が縛りつけたその世界が、一般的に言うところの議論のカタチをしている空間であったからだ。そういう意味において、彼の言葉は私たちを彼の歪んだ世界に縛り付ける、呪詛のそれであって、謂わば、私たち第n者の世界を破壊して、決まった形に無理やり再構築させられる兵器であった。こうやって、彼の言葉についてこんな風に抽象的に語りながらも、それを体験した事のない一般的な人間にとってはあまりにピンとこない事象であることは容易に想像ができる。それくらい、きっと彼の言葉は普通のそれとは大きく理を外れた代物であって、長らくそれに縛り続けられた私も、私の言葉も、私の世界も、今となっては、大方、一般的なそれとは異質な成分を含んだ、謂わば異形の物であるのだと思う。

 詰まるところ、創造的な意味合いにおいてレゾンデートルを確立している言葉がこの世に存在するのならば、破壊的な意味合いにおいてそれを確立している言葉もまた、確かにこの世に存在しているという事を、私は結論づけたいのだと思う。きっと彼や、そして私以外にもそういう言葉の遣い方をする碌でもない人間は他にもこの世界に存在していて、もはやそれは人間と呼んでいいのかわからない程この世の理の外側を闊歩している生き物に思えてならないけれど、そうやって言葉で世界を破壊して、創造して、また破壊する事を繰り返したその先に視る事ができる世界の景色という奴は、きっともうこの世のものとは思えない程最上の美しさを誇っている事だろう。でもきっと、それは誰も視る事は叶わない、ある意味、人間にとって不可侵の領域とも表現できる光景なのだ。だからこそ、私はその不可侵の領域への夢を捨てきれない。私という、その世界を破壊され続けて、再構築し続けて、自身も破壊する方法を覚えて、そうやって創造する事を覚えて、いつの間にか人間の歩むべき道を踏み外してしまった私だったら、いつかこの世界の行きつくその先を、世界の真理という奴を、この目で視る事が出来るのではないか、そんな傲慢な想いが頭の片隅にいつも在る。だから私は、私の遣う言葉は、その正しい遣われ方を知っていながらも、それに遵(したが)ってこの世界に解き放たれる事は無い。いつだって私の言葉は、私の都合の良いようにこの世界を破壊して、再構築して、そうやって『あなたたち』にこの世界を強制する為のツールに過ぎない。それでも、いつまでもこの世界が、私にとって最上の美しさを体現できるそれになり得ないのは、一重に、この世界に「私」という不変の個が内包され続けているからであろう。私が私である限り、この世界にどんな嘘を吐いても、それが真実になり得る事はないし、破壊と創造を何度繰り返したとしても、私という人間は変わらずにそこに存在し続けられる。それならば、私にとって1番馴染み深い言葉という武器を、やりたい放題に振り回してしまっても良いだろう。どれだけあなたたちの世界を壊してしまっても、私という世界が壊れてしまっても、私が私であるように、あなたたちはあなたたちのままに、この世界に存在し続けられる筈だ。だから私は、あなたたちと、そして私そのものを壊さないように、それだけ気をつけていれば、きっとそれでいい。これが私にとって、私にできる、最大限の「人を大切にする」ことなのだと、今はそう、信じて疑わない。

 

…………ブウウ――――――ンンン――――――ンンンン………………。

 

 ああ、どこかで携帯電話が鳴っている。世界にとってそれは、ただの金属の塊が勝手に震えているに過ぎない。でも私にとって言わせれば、その慟哭は、これから始まる破壊と創造の戦いの火蓋が切って落とされる音に同義だ。くどいようだけれどそれでも、世界にとってそれはただの物体の振動以上の意味を持たないのだ。私が今思っているこの気持ちは、果たして『あなたたち』に正しく伝わるのだろうか。否、別に正しく伝わる必要なんてないのだ。『あなたたち』の世界にとって、それはきっとまた別の何かである筈だから。

 

2. 有限罪と無限罰

『文明の滅亡が避けられなくなり、また蘇るかもしれない人類に一言だけ遺言をのこすとしたら。』

 もう少し暖かかったら今年初めての雨になっていたかもしれない。三寒四温の前者ど真ん中たる今日この頃、きっと暫く見ることはないだろう霙に身体を晒しながら、私は約束のカフェテリアへ急いでいた。あと30分早く目覚めていたら当たらずに済んだかもしれない。要因が何であれ、時間が有限有償の象徴である事を思い知らされる度に、自身のルーズな性格を恨んでばかりいる。そして、本当に時間という概念が有限のそれなのかを意味もなく考えてしまう。素人が言葉の上でこれを考えると、時間という概念は自然と存在しているわけではなくて、人間が創造した概念にすぎない為に、人間が存在している限り存在する概念であり、すなわちそれは、その限りにおいて有限であるということになるのだろう。しかしながら世の中には時間が有限である事を証明できずにいる物理学などと言う学問も存在しているわけであって、勿論その証明の原理だとか経緯だとかは素人の私にとっては理解する気にもなれないそれである事は言うまでもないのだけれど、結局その人間のクオリティによって、ある事象や概念の理解度には差があって、時にはそれが全く方向性の違う結論として享受されている可能性があるという事を再確認させられる。私にとって時間とは自身を拘束するだけの忌わしい存在であると共に、この世界に存在する無限の可能性を知らしめてくれる偉大な存在でもあるのだ。だから、そういう相反的な特質を持った興味深い存在と、ルーズなくらいの心持ち、心意気で何となく、ゆらゆらと付き合うことができる自分自身のこの性格を、結局私は好きなのだと思う。愛と憎しみは紙一重とはよく言ったものだ。………何か違うかもしれないけれど。

 くだらないことを考えているうちにカフェテリアの入り口が私を通り過ぎて行った。LINEで、待ち人へ到着の旨を知らせる。今日は約束の時間に間に合っている。有限な時間と一瞬の和解が成立するというやつかもしれない。

「お待たせ。待たせてないけど。いつもの社交辞令ってやつだね。」

適当に声をかけて、待ち人の対面に座る。

「お互い時間前に集合か。珍しい事もあるもんだね。明日は雪かな。」

待ち人、もとい茅守は、彼には珍しく皮肉を口にして、手をヒラヒラと振った。

「雪は今日降ってるんだよ、もう。私が約束の時間に間に合ったから雪が降っているのか、雪が降ったから私が約束の時間に間に合ったのか、果たしてどっちだろうね。」

私はまた適当に答えて、テーブルの端からメニューを引っ張り出す。昔から、閃きに必要なのは一杯の紅茶と女神のキスというけれど、気取ってアフタヌーンティーと洒落込んでみようか。

「何頼むか、決まってるの。」

メニューに目を通そうとしない彼に、メニューを差し出しながら尋ねる。

「アイスコーヒーでいい。」

ちょっと格好つけたみたいに彼は言う。文字通りクールな奴がそういう口調で物を言うと、何となく殴りたくなる。スマートフォンで所定のQRコードを読み込んで、何の変哲もないアイスコーヒーと最近マイブームのホットソイラテを選択する。もはや今という時代は商品を注文するのに、例え実店舗であっても人間を介さない。文明の進化も、ここまで来るとたかだか十数年の命にも進化としての実感があるというものだ。

「さて、と。時間ってやつは有限で貴重な資材だからね、さっさと本題入っちゃおうか。」

茅守の目を見据えて、改めて問う。

「前に、必要条件さえ満たしていれば誰が団長を担ったとしても問題はないと言っていたね。そうして、君か私が団長をやるべきだとも。つまり私達は、必要条件を満たしている団長候補として選任されて差し支えない人材というわけだ。」

茅守は目を閉じてゆっくりと頷く。

「それじゃあ今の君は、客観的にこの盤面を鑑みて、君と私と、どちらが団長を担うべきだと思う?」

単刀直入に、結論だけを問う。寄り道など要らない。本来この男との対話は、そういう性質を内包した、気持ちが良いほど無駄の無い濃密なそれなのだ。

「流石だね烏藤。自分は色々な人間に働きかけて、数々の状況が今少しずつ変化し出している、その事を分かっていて、そしてそれを僕も理解していて、その上で団長を誰が担うべきか。その結論がもう固まっていると、それを見越しての質問だね。」

そうだ。この男は決して、以前から団長には自身か私をと、その思考をそのままこの場所に持ち込んできたわけではないのだ。あの日この場所で戯言を交わしたその時点から、この男はあらゆるIFストーリーを考慮して、幾つかの有力なストーリーの完遂のために、彼自身"も"様々な機関に、人間に色々な働きかけを行ってきたに違いない。そして今、この時点で改めて、団長候補には自身か私か、その何れかと、そう結論づけている筈だ。否、そう結論づけざるを得ない筈だ。そういう風に、私は、彼の世界を書き換えた。補完した。傲慢な言い方だろうか。人の所業ではないだろうか。正しく、それは傲慢な思考の元に行われたし、人の為せる業ではなかった。あなたたちも知っての通り、とっくに、きっと私は人で在る努力をやめていた。怠惰、なのではない。人をやめるくらいに、私は本気だったという事だ。彼が見る世界とその先に見える無限の可能性を秘めた数々の未来を全て考慮して、私にとって都合が良い世界線だけが残るように、不確定要素を全て排除し、外堀を埋めて、その内側のコミュニケーションネットワークに干渉した。その過程の中で私が残した足跡は、勿論消すこともできたが敢えて彼にも理解してもらえるように全てを、いや、その"いくつかを"残してきた。彼だったら私の意図を汲んでくれる。そういうエゴの元に、人をやめた割には最後まで彼を信じて、私は彼に判断を委ねた。だからこそ、私は彼に訊いた。

「答えを、茅守の考えを聴かせてもらえるかな。」

それは言葉通り、答え合わせのつもりだったが、私の信じた茅守は私の想像していた以上に、私の事を信じてくれているようだった。そういう目をして、彼は私に、話を聴かせてくれた。

 


 「全然関係ないけど。」

最初から冷たいコーヒーを片手に、彼は何処かで聴いたことがある台詞を枕詞に語り始めた。

「最近、なんか違うなって感じる事がしばしばあってね。いわゆるもどかしい気分っていうやつなんだろうね。自分で言うのもなんだけれど、僕は元来、そういう面倒な感情とは自分自身の才能にかまけて真っ当に付き合ってこなかったんだ。きっとね。才能と表現するのもまたナンセンスな気もするけれど、とにかく、なんか違うなって感じる前に、自分ひとりの力でなんか違うという感情を捻じ曲げてきたわけだ。自分の都合の良いように。自分が生きやすいように。それで今日まで何とかなってきたんだ。過不足なく自分のために創られた自分の中で安寧を享受してきたんだよ。でも最近、なんか違うなって感じるんだよね。本当にこの自分という生き物は、自分のために、自分の都合のいいように、創られているのか?何とも言えない生きづらさを痛感して、何とかなっていない事に気づかされる毎日だ。今日も、そして今も思う。何かが違う、この、パズルのピースがひとつ抜け落ちているような、何とも言えない、否、言われない、この違和感。………僕だけではない筈だよ、烏藤。君もこの謂れのない違和感に、これまでの人生、ずっと冒されてきた筈だ。君ほど賢しい人間だったら、この違和感の存在を認識できる筈だ。………そうだろう?」

一息に彼は言った。この男は、茅守は、本質の外側をなぞるようにして「私たち」の核の有り様をこの世に存在する言葉で表現しようとしていた。まさかここまでとは…。正直に、ありのままに言うなら、私は驚いていた。それは正に驚愕という名の感情だった。驚愕を感情の一として数えるかどうか定かではないが、それでもそこにあるのは言葉にならない驚きだった。

 私たちのような三次元の世界に生きる愚か者には、生涯、罪と罰が付き纏っている。この薄っぺらいたった1枚の皮膚で隔てられた、自分自身と世界とを、私たちはいとも簡単に破壊して、そして私たちの都合の良いように創造する。私は世界を。彼は自分を。自分を世界から守る為に自分を壊す矛盾と、世界を自分から守る為に世界を壊す矛盾をそれぞれに理解しながら、それ以外の生き方を知らないまま、愚か者は自分を、世界を壊し続ける。罪の名は破壊と創造。人間の理を外れた、神の真似事を働く愚か者の罪状だ。そうして、自分が納得するまで世界を破壊しては創造して、世界が納得するまで自分を破壊しては創造して、今こうしてここに在る自分と、自分を取り囲む世界は、果たして本当にオリジナルの、そのオリジナルが望んだ世界なのだろうか。いくら壊しても、いくら創っても、答えはわからない。わからない事くらいわかっているのに、それでも私たちは罪を犯す事をやめられない。そうして、そんな頭でっかちな私たちに与えられた罰の名が虚無。どんなに手を尽くしても埋まらないその虚空の如き違和感に、私たちは生涯苛まされる。神を語れば世界を殺しても良いのか。天才だったら人を殺しても良いのか。人間じゃなければ自分を殺しても良いのか。そういう事が分からない愚かな脳が知覚する虚空の果てを、私たちは嫌というほど噛み締めさせられているのだ。こんなに簡単に、こんなに適当に、私は私たちの罪と罰について言語化して良いのだろうか。無論良いわけがないというのは言わずもがな、しかしながら私には、これ以上正確にそれを言語化する事ができないのだ。私たちが背負っている罪と罰が果たして本来的にどういう代物なのか、私自身にも、そしておそらく彼にも分からない筈だった。だから私は、今、驚愕しているのだ。彼がその本質の外側をなぞるような事を言い出したから。

 「つまるところ、僕らは無限に続く虚無という名の違和感を脳裏上に抱えて、それから一生逃れられない運命の中で、罪を犯し続ける、この世で最も愚かな存在だということだ。そうだよな、烏藤。」

既にアイスコーヒーは無くなっていた。カップの中身は空っぽだ。代わりに、この無駄に広くて真新しいカフェテリアのボックス席は彼の世界で満たされている。完全に彼が、茅守が、この2人だけの世界の覇者だった。

「そういう意味において、僕らは常に救いを求め続ける。罰に対して罪で応え続けていても、その愚かな脳の端っこではそれで現状が打破されない事くらい理解できる。こんなのはただのその場しのぎだという事を。本質的な物事の解決ではないという事を。でも自分の力では、人間でいる事を犠牲にして手に入れたような特異的な能力を以てしてもどうすることもできない。だから僕らは外の世界に救いを求める。自分が干渉できない、自分というルールの外側にある代物に強い憧れを抱く。理解るよな、烏藤。」

空のカップがソーサーに置かれる。陶器同士が擦れる音が虚空に響いて耳に触る。

 


「だから僕らは、応援に魅せられたんだ。」

 


 嗚呼そうだ。だから私は、いや私達は応援という概念に惹かれたのだ。初めて、あの心臓に響く太鼓の音と、全身に伝播する猛々しいメロディーに出会った瞬間に、身体の全てを乱暴に鷲掴みにされている感覚を覚えて、そうして、魂だけがなんとか自分で制御できる状態で、その魂が、応援という、どうやって存在しているのかも、何のために存在しているのかもよくわからないそれに惚れ込んだのだった。それ以上でもそれ以下でもない。応援を好きになったわけでも、恋したわけでも、愛したわけでも、妬んだわけでも、尊んだわけでも、崇めたわけでも、理解したわけでもない。ただ、純粋に、応援に憧れてしまったのだ。まさに自失茫然、応援という、大いなる存在に魂を抜かれたと云っても過言ではない。

 


「無論、憧れは理解から最も遠い感情だ。」

 


茅守は哀しそうな、それでいて瞳の奥でわたしの魂の裏側を射抜くような、そういう表情で、私という矮小な存在を喰わんとするようにして、結論を展開した。

 


 「聡明であるところの烏藤にはもうこの結論が視えているだろうけれど、敢えて僕の口からそれを綴る努力をしよう。僕らはこの団体を誰よりも理解しようと努めてきたと思う。普遍的な人間には絶対に辿り着けない、子の団体の存在意義の真相に、否、応援という概念のレゾンデートルを解き明かす為に、既に僕らは人間ではない何かの領域にまで足を踏み入れている。でも、どんなに時間を要しても、どれだけ対価を支払っても、僕らはその本質には辿り着けないんだよ。何故なら僕らは"応援"という、どうやって存在しているのかも、何のために存在しているのかもよくわからないそれに魅せられてしまったのだから。理解しようとすればするほど、僕らの本質は応援という悪魔に喰われて、自分自身が自分では無くなってしまうスパイラルの中に存在してしまっていて、この命運からはもう逃れられないんだ。2人ともね。」

空調の弱風が身体に堪える。いつの間にか、外の雪は止んでいた。一面ガラス張りのカフェテリアの中にまで日光が差し込んで来る。隙だらけの心身が焼け焦げてしまいそうだ。満身創痍の自身の口だけを何とか動かして、彼の言う結論の最後を責任を持って紡いだ。

「誰もが私たちにしか団長は務まらないと思うように、そういう世論がマジョリティーになるように、そういう風にこの世界は創られていたし、事実、一般的なリーダーとしての適性は、私たちは、及第点をゆうに越えている部類であったと思う。でも、根本的に、私たちは"応援"という、得体の知れない悪魔を御し続けて生存するこの団体のトップには、到底成り得ない。私たちがこの世界の中に居て、この世界と、この世界に存在する"応援"という奴を理解しようとすればするほど、その未来は絶対に訪れない。」

「そういう事だ、烏藤。僕らはリーダーになれない。端から畑違いなんだよ。僕らはリーダーになる為に、この団体に所属しているわけではなかったんだ。」

まさしく、それはこの話し合いの結論であった。私たちは応援団に仕えるために存在している生物ではない。"応援"という、概念そのものに、常に全身全霊の力を持って、誠意の元にそれに魂を捧げ続けなければならない生物なのだ。薄々、わかっていた事だったのかもしれない。応援団について悩めば悩むほど、自分自身の存在理由がこの世界から消失するのは、文字通り、まさしく私が応援団のために存在しているわけではなかったからであった。彼はそれに私よりも早く気がつき、この数ヶ月で言語化するまでに、その事実について理解を深めたというわけだ。

「つまるところ、話は振り出しに戻ったわけだよ、烏藤。でも話はそう難しくない…と思う。他人事のように言うのは申し訳ないし、いくら同期といえど気が引けるけれど、ここまで世界を創ってきた烏藤には最後の仕事が残っているはずだ。…いや、烏藤にしかできない仕事があるはずなんだ。」

皆まで言わなくてもわかるよな、と茅守は呟いて席を立った。ここまでお膳立てされてしまっては敵わない。別に勝ち敗けとか、決してそういう類の話ではないが、敢えて言うのであれば完全に私の敗けだ。敗者に口無し。責任を持って最後の仕事を全うしようと思う。

「任せてもらうよ、茅守。私の全てを以て、責任を果たさせていただく。」

リーダーを担うのは私ではない。でも、リーダーを決めるのは私だ。私がそういう世界を創造したし、茅守も望んでその世界に生き続けている。この世界の幕引きを図るのは当然、私の責任だ。

 茅守と別れて、AirPodsを冷えた両耳に差し込む。彼と会うまで、雪道の中で嗜んでいた音楽が再開される。1人で音楽を聴いていると、まるでこの世界が、私1人を残して終末を迎えてしまうような妄想に駆られる。もしもこの世界が終わってしまうとして、そして仮に、この碌でもない世界に新たな生を受けて果敢にもその天命を全うしようという勇者が現れるとしたら、私という、この世界の創造主たる神の成り損ないのような矮小な存在はどのような訓示を残すべきだろうか。ノーベル賞を持つ著名な物理学者であるリチャード・ファインマンという人物は、「もし世界規模の大変動が起きて科学的知識の全てが破壊されたとき、もしあなたが次世代にたった一文だけを伝えることができたとしたら、少ない言葉であなたはどんな重要な情報を伝えますか?」と質問された時に「全てのものが原子で構成されていると仮定する『原子論』を伝える。」という模範解答を世に残している。この話の面白いところは「ファインマンはこのように答えたけれど、あなたならどう答えるか?」という「回答例」が複数存在する事だ。中でも私が心を打たれた回答例は「ビーチに座って海流を眺めるだけで、私たちは、私たちのまわりにある運動における数学的記述を理解することができる。」というものだ。果たして今の私は、波打つ水流に魅せられる事なく、水流の法則性を理解する事ができるだろうか。ふと、そんな戯言が頭の片隅をよぎった。

 イヤホンを付けている時だけが1人になれる瞬間で、外の世界の音を遮断してドラムのリズムで歩いた。

 タンタンタンタン、タンタンタンタン………

 

3.