否唯なしに。

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比翼鳥の煩悶 第一部「喪失感の真実」

 暫しの間、私の最近の思考について共に理解を深めて欲しいという、細やかな願望の元に筆を走らせる。

 

 

前戯

愚行を正当化する事は極力避けたい。あくまで偽悪的に解釈した上で、その動因を愛する方が思考として健全だろう。

 言語化というものは麻薬と同じである。それを使った人間に幻を見せ、まるで世界がそういう風にできているかのように感じさせ、断定させ、その本質を感受する行為そのものを阻む。私の都合の良いように世界のインデックスを書き換えて、私の都合の良いようにページを破り捨てて、私の都合の良いように耳を擽(くすぐ)る一節だけを誦(そらん)じる。言語化とはそういう意味合いにおいて、行為者の為に存在する行為でありながらも、本質的には行為者の為にならない行為であると言える。

 従って、私は当該行為について、本文に限っては違った意味を内包させたいと感じ入るところである。私は、私が安心する為にこれを書きたいのではない。私は、私という人間を模る思考の一種を、偏に理解したいのである。その為には、貴君らのようなオーディエンスが必要である。貴君らが存在して初めて、当該行為は唯の自己都合による創作とは異なる、私の趣旨に則った意義を見出す事となるであろう。

導因

憧れという感情の、私にとっての存在意義は実に曖昧である。翻って、それが私の為に存在するという事柄に関しては、実に明瞭である。

 去る2023年12月某日、私は1人の女性が左手薬指にリングを填めているのを見て、喪失感に良く似た感情に脳領域を支配された。チタン味のある自然な発色と華美でない単調なデザインは、そのしなやかな指に良く似合っていて、まるで初めからそこにあったかのように思われた。しかしながら私が知る限りにおいて、彼女の左手薬指が滑らかな金属によってあしらわれているのはそれが初めての事であった。

 彼女との邂逅は半年程前に遡る。私の直属の上席にあたる御方であり、私が満足に仕事ができるようになる迄、非常に丁寧に面倒を見ていただいた事は、未だ記憶に新しい。現況を正しく把握し、問題解決の為の糸口を見出す事に長けており、それを端的に言語化して他者に共有する事も得手であるように見えた。何より、一つ一つの案件に関して、クライアントは勿論、後続対応をする事になるであろう同胞の都合にも配慮し、未来を見据えた再現性の高い対応策を打ち出す姿が印象的で、私が畏敬の念を抱いていた事は言うまでもない。その仕事の仕方が、私にとってどれほど魅力的なものであったか、語り始めれば日が落ちてしまうが(現に、この一文をどうやって一文として纏めあげるか、かなり頭を悩ませたものだが)、ともかく当該文章においては、彼女が私にとって憧憬の的であった事が貴君らに伝われば良い。

 "憧れ"という感情は非常に便利だ。怒りとか哀しみとか愛しさとか、そういう本能的で衝動的な感情に比べると、それを抱く事によるリスクが皆無で、ストレスフリーでコストパフォーマンスが良い(怒りのままに行動してしまっては最善の選択をする事が難しいし、それが生みだしたネガティブな結果について、責任を負わなければならないかもしれないだろう?)。少し抽象的すぎる表現かもしれないが、予防線を張る心理に類する行動のひとつである事は感覚的に理解できると思う。このような視点において、"憧れ"という感情は理性的な人間という生物が、多感で脆弱な己を自衛する為に、便宜的に、ある種建前的に生みだした(確立してきた)感情であると考える事ができる。それは本来的には好意の延長線上に存在する、妬みとか嫉みとか僻みとか、そのような、一般的に下劣で醜悪的であると捉えられる感情によって、自失しないように、そして他者が傷つかないように心身を保護してくれる大切な保険なのである。

 "憧れ"という感情は非常に便利だ。それを良く理解しているからこそ、私はこの感情に対して全幅の信頼を置いているし、使途不明の行き場のない曖昧な感情に対してその名前をつけて、思考する事を放棄しては、その利便性に感服している。このような先行思考に基づいた上で、この文章は、理知的で保守的な、いわば安全神話が謳われてきた"憧れ"という感情を貫通して、"喪失感"という使途不明な感情に私が急襲された事に端を発する。

ここで、私が特に気遣わしいと感じられた点は次の2点である。

  • 便宜上、「喪失感に良く似た感情」と表現したこの感情は、どのような意義を以て存在している感情なのか。
  • 私自身の意思で私を守らせていた作為的な感情を貫通してまで、私という個の内側を「侵略せしめた要因」は何か。

今回はこれらの論点に対して次の4点を切口として、曖昧な思考の明瞭化を図る。

  •  「喪失感に良く似た感情」の正体
  •  「喪失感に良く似た感情」の存在意義(発生要因)
  •  「侵略せしめた要因」の正体
  •  「侵略せしめた要因」に対する私の敗因

以上の論究を元に、最後に本項(導因)に対する私自身の回答を用意する事で、当該行為の幕引きとする。私の中で半年間止まっていた思考の時間が、たった今、再進するのだ。

端緒

それは「喪失感」であって、"虚無"でも"悲嘆"でもない。対象は必ず何かを「喪失」していて、「喪失」したクオンティティと同等のそれを新たに抱えている筈なのだ。

 「喪失感によく似た感情」について自身なりに解釈を採る為に、私は、先ず一般的な「喪失感」というものを理解する事にした。これを最も端的に表すのならば、一般的に「大切な存在を失ったときに覚える空虚な気持ち」とするのが良いようである。要点は、それが「大切な存在を失った」という事象に起因して発生する感情であるという事と、その感情が本来的には"意味や存在価値"を内包し得ないという事、以上2点だ。即ち"喪失感"とは、前提として当人が、当人にとっての「大切な存在」を自覚している状態において発生する可能性のある感情であり、そしてそれは、「大切な存在を失った事に対して、当人が覚える感情に名前がつくまでの間」にのみ、当人の感情領域を揺蕩う、ある種刹那的なそれである事がわかる。

 初めに、要旨を分解して本質の言語化を試みた結果、かなり抽象的な論説となってしまったので、今度はもう少し順序立ててこれの発生と消失について解明してみたい。「喪失感」の発生に先立って「大切な存在の消失」という事象が存在する事はもはや既知の事実であるが、ここでいう「大切な存在」は、文字通り「大切な存在」でなくても構わない。(それが当人にとって「大切」でなくても構わないのに、文面上「大切な」と表現すると誤解を招いてしまう為、一旦この項では「大切な存在」と表現している物事を「X」という文字で代替しよう。)有象無象の物事「N」が「X」たり得る条件は、①当人がある特定の「N」に対して何らかの思考を行っていて、そこに何らかの感情が存在する事と、②①の行為が同一の「N」について恒常的に行われている事、である。即ち、当人がある特定の「N」について、恒常的に何らかの感情を抱えるようになる事で、その「N」は「X」へと昇華する。この"何らかの感情(便宜上、これを「x」と呼称する)"について、それが当人にとって大切であるかどうかはここではそれほど重要でなく、寧ろ些細な内容であっても"それが恒常的に「X」について思考した結果生じたもの"である事が重要であると思われる。これらを総合的に判断すると、初めに「大切な存在の消失」と表現していた事象は、正確には「Xの消失によって生じるxの喪失」であると捉える事ができる。この時、「X」が事実上消失したとしても「x」が急に消失する事はあり得ない。何故ならそれは"恒常的に当人の感情領域の片隅に存在した感情だから"である。しかしながら、そのルーツであった「X」が消失した事によって、「x」の存在価値や意味はこの世から消えて無くなってしまう。結果的に「x」そのものが無意味で無価値な「空虚な気持ち(=φ)」に成り代わってしまうのだ。そうして時が経って、「x」の感覚も覚めやらぬままに、「φ」があった場所へ「Xを失った事に対する感情(=y)」が充てがわれる事になる。素直に考えれば、困惑、不安、恐怖、悲哀、憤怒、罪責、一般的に悲嘆と表現されるそれらが「φ」領域を占める「y」となるケースが多いだろうか。ここまで思考を進めて漸く、喪失感を「大切な存在を失ったときに覚える空虚な気持ち」と表現した意図を理解すると共に、このような「x→ φ →y」という感情の変遷を総称したものが「喪失感」なのであると実感できる。

展開

「似ている」という形容の本質は、それが、対象と明確に異なる存在である事を示唆しているという点である。

 私は未だ、「喪失感によく似た感情」の正体を解き明かす事ができていない。前項である程度、その成立と全体感について言語化を試みられた「喪失感」であるが、私が今回襲われたのは「喪失感によく似た感情」であって、「喪失感」そのものではない。その確たる証拠として、私は何か特定の「X」を失ったわけではない。現実世界で起こったのは「1人の女性が左手薬指にリングを填めていた」という事で、そこに「物理的な」引き算は存在しない。では何故、私はその出来事に対して「喪失感によく似た感情」を覚えたのか。何故「当時の感情の変遷」の様を喪失感によく似ている、と形容したのか。ここまで思考を展開すれば、自ずとその意図は理解できるだろう。それ即ち「当時の感情の変遷」が、喪失感が表す「x→ φ →y」という感情の変遷に類するものであったからだ。やはり私は、未だ正体を掴みきれない何かを必ず「喪失」していて、そして「喪失」したクオンティティと同等のそれを新たに抱えている筈なのだ。

 一体私は、何を喪失したのだろうか。その為には、当該ケースにおける、私にとっての「X」と「x」について、その存在の内容を明らかにしなければならない。(実は、この時点である程度書きたい内容、書かなければいけない内容は決まっているのだが、私自身、それの解像度が低くて、的確に言葉を紡ぐ事が難しく、今、非常に苦しい気持ちである。ともすると、必要のない回り道をしたり、くどい論説になったりするかもしれない。謹んでお詫び申し上げると共にお赦し願いたい。)できる限り単刀直入に行こう。「1人の女性が左手薬指にリングを填めていた」という事象が示唆するのは「結婚」である。「結婚」とは、「婚姻」を定義する最も一般的な呼称であり、その定義範囲は「夫婦間の継続的な性的結合を基礎とした社会的経済的結合で、その間に生まれた子が嫡出子して認められる関係」とされている(広辞苑第七版に基づく)。現代社会(少なくとも今、私が生きている日本社会)において、この関係は唯一無二的であって、同一の人間において複数存在し得ない。即ち、ひとつの可能性として(或いは思考の方向性として)、私が喪失したのは「彼女と婚姻関係を結ぶ権利」であると考える事ができる。しかし、この表現であると「私が既に別な女性と婚姻関係を結んでいるが故に、彼女と婚姻関係を結ぶ事ができない」と捉える事もできてしまう為、「婚姻関係を結ぶ権利」を喪失したのは「私」ではなく「彼女」であるとするのが健全であろう。即ち、実質的に私が喪失したのは「彼女に婚姻関係の対象として選択される可能性」であると、表現し直す事ができる。この「思考の視点移動によって、物事の本質を自身の視点から見た形で解釈する」方法を覚えておいて欲しい。

 ここで改めて「X」と「x」の定義について振り返りたい。ある特定の「N」という物事について、当人が恒常的に何らかの感情を抱えるようになる事で、その「N」は「X」となり、この"何らかの感情"というのが「x」なのであった。故に「彼女に婚姻関係の対象として選択される可能性」が「X」であると仮定するならば、私はそれに対する恒常的な思考と、それに基づく感情を抱いていた事になるが、残念ながらこの仮定に基づく結論は現実の状況とそぐわないように思う。私が「彼女」に対して「憧憬の意」を表していた事を"自覚していた事"は間違いないが、私は明確に「彼女と婚姻関係を結びたい」という事について思考していない。言い換えるならば、"状況証拠的に"喪失が疑われた「彼女に婚姻関係の対象として選択される可能性」は、事実上"私が喪失した事象"である事は確かだが、それについて何らかの恒常的な思考の事実が認められなかった為、"それが私に対して喪失感を発生させ得る事象であった"と結論づけるのは実に不自然だ。それが意味する心延えは「何も喪失してないのに、何かを喪失したと錯覚したもの」か、或いは「何も喪失していないのに、何かを喪失したのと同等の衝撃を受けたもの」か。何れにしても「私は何も喪失していない」事はどうやら確からしい。

 こうして、真面目に順序立てて「喪失感によく似た感情」について思考した結果、予想だにしなかった奇天烈な真相に辿り着いてしまった。私は何も喪失していないというのに、喪失感によく似た感情に急襲されたのだ。私がこれを「喪失感」とせずに「喪失感によく似た感情」としたのは、前提となる発生要因がそもそも異なる、似ても似つかない存在であったからであろう。まさに新時代の喪失感、さしづめ『ネオ・喪失感』とでも呼称できようか。私は何故、この奇想天外な感情『ネオ・喪失感』に襲われるような事態に陥ったのだろうか。その時、私が抱えていた「x」にあたる感情は果たして何なのか、そして「x」があった場所にまもなく満たされる筈の「y」という感情の名称を、今の私は知り得るのだろうか。『ネオ・喪失感』の存在意義を突き止める為、私はさらに先へ、私の思考を進めなければならない。

 

第二部「憧憬の欺瞞」へつづく

 

 弥永唯 ー2024.01.27.