否唯なしに。

否唯なしに。

否唯なしに。

「Re:烏の濡れ羽色」

 何か、違う気がしてきた。男は、走らせていたペンを放って、ついでに目の前の原稿用紙も丸めて屑籠に投擲してしまった。ラジオ代わりにデスクの上で喋らせていたスマートフォンが、例年よりも早い初夏の到来を伝えている。この男の部屋にもそれは例外なく損害を与えているようで、壊れてそのまま放置されているエアコンは、男の額に次から次へと浮かんでくる大粒の汗を、ただ見下ろす事しかできなかった。いつの間にか水道は供給が止まっていて、シャワーを噴射する事もできない。この部屋で男にできる事は、ただひたすらに、ひたむきに、文章を書くことだけだった。書きたいと思った景色を想像して、輪郭を原稿用紙に綴って、インターネットという名の海に放出するだけ。たったそれだけの簡単な作業だというのに、それすらもなんだか、違うのだという気持ちで、デスク傍に無造作に置かれた屑籠は溢れてしまいそうだった。違う、というのは一体どういう気持ちなのだろう。何を基準にして、違うなんて曖昧な表現が脳裏にこびりついて離れないのか、もうそれすらも分からない。結局、何か違うという固定観念に監禁されてしまった今、もう一文字たりとも文章の続きを綴る事は叶わないのだろうという事くらいしか、男には見当がつけられなかった。

 このままいつもの様に不貞寝してやろうか。放られた筆記具宜しく、身体をベッドの上に転がしてスマートフォンを弄ぶ。偏った思想と、何が嘘で何が本当なのか分からないニュースに汚染されたそれは、最近はもう目覚まし時計としての機能しか果たしてくれない。まったくどうして、本当につまらない世の中になったものだ。徐々に荒廃して、活気を失って行く社会情勢は、丁度落ちぶれていく自分を鏡写しに見せつけられているようで、荒んだ心に酷く堪えた。何か、この擦れた心を満たしてくれる物は無いだろうか。男は考えずには居られなかった。そして考えれば考えるほどに、自身の心が、文字通り伽藍堂の様に空っぽである事を自覚させられて敵わなかった。それでも、生きる事への曖昧な執着心だけはしっかりと残っていて、嗚呼、人間って奴はなんてゲンキンな生き物なのだろうと思わずにはいられなかった。

 無意識のうちに吐きだした溜め息と共に、横向きになった男の胃が情けなく呻き声をあげる。腹が空いて仕方がない。生きるためには何か食わねばならない。この部屋にある冷蔵庫に、碌な備蓄など期待できる筈もない。いい加減、スーパーの半額シールが貼られた底の浅い弁当も、コンビニの油に塗れたホットスナックも手に取る事は躊躇われた。そうして不意に、手料理が食べたいという気持ちが脳裏をよぎった。誰かが自分の為に作ってくれた、温かい飯を腹一杯食いたい。人の心が口の中でじんわりと拡がるような、何物にも代え難い幸福感が堪らなく恋しい。そうやって、何か、今の心をどんぴしゃり打つような美味い飯の事を考えながらも、男の手はスマートフォンを弄るのを止められない。こんな玩具に騙くらかされるほど、他愛もない俗物に成り下がってしまったのだろうか。そんな事を意味も無く考えているから、筆は一向に進まないのだ。分かっている。頭ではよく分かっている筈なのだ。男は自身の再現性の無さに、嫌というほど辟易していた。

 この、意味も生産性も無い日常の循環を打破する為には、面白みも生き甲斐も無いルーティーンを自ら破壊するしかないだろう。そして自分という理の外側にある世界に救いを求めるしかないだろう。久方振りに誰か自分以外の人間と、盃でも交わして語ろうか。思い立ったら何とやらだ。面倒でなかなか立ち上がらない腰を持ち上げて、遠出の支度を始める。色が落ちたジーンズを履いて、草臥れたシャツを羽織って、スマートフォンと財布だけをポケットに突っ込んで。後はもう、最寄りの駅に到着する電車にその身を委ねるだけだ。何て簡単な現実逃避だろう。電車に揺られながら、景色が視線の端から端を移動する感覚を思い出すだけで、身体が震える。この瞬間だけ、自分は今を生きているのだという実感が湧く。鳥のように、外界へ羽ばたくその瞬間の為に、大いなる生命力の源たる翼を、その背中に宿しているのかもしれない。きっと男は、元来そういう生き物であった。そして、そういう風にできている自分の事を、男は心の底から好いていた。

 

 「相変わらず、斜に構えたような文章しか書かないんだね。」

そう言って、真向かいに座る女は、眺めていたスマートフォンを懐にしまった。カランッと澄んだ音を立てて、角が取れた氷は、目の前のグラスの中で程良く濁った液体に浸かる。少しだけ水面が揺れて、小洒落た照明が四方に離散した。綺麗だ。ほとほと浅い感想が、脳裏を過った。

「相変わらず、斜に構えたようなコメントしかできないらしいね。」

頭を働かせるのが面倒で、彼女に倣って言葉を紡ぐ。ついでに、いい加減焼きが回ってきたであろう帆立を貝殻ごと救出して、梅の花が彩られた取り皿に避難させた。潮が香って良い。やはり美味い酒には、女と魚介が良く似合う。当の女はと言えば、気安く一緒にしないで欲しいわ、と、大して不満でもなさそうな顔で呟きながら、寂しくなった両手と箸袋で折り紙をして遊び出した。まったく器用な奴だ。

 次の言葉を待たずして、掴みが弱いよ、と女は言った。

「冒頭からいただけないんだよな。何か違う気がしてきた、っていう表現がもう、完全に逃げ出してしまっていると思うんだ。君自身が、この文章からね。君がこの文章を書く事で、誰に、何の為に、どんな事を伝えたいのか、これじゃあ、読み手には全く解らない。解らないというより、読み手の興味を唆らないんだ。せめて、『何か違う』という言葉の解像度をもっとあげて、丁寧に、細やかに綴ってやるべきだと思うよ。画角の真ん中の対象ではなくて、その周りを彩るアイテムを使って読み手の心を擽ってみるとか、何か仕掛けを施してくれないと、全然読み応えが無いや。」

なるほど、最もらしい事を言うものだと、男はいとも簡単に得心してしまった。さしずめ、醤油が隅々まで染み渡ったアオリイカのような気持ちだった。同時に、こんなに薄っぺらい文章しか今の自分には書けないものなのかと、悄然とする思いだった。いつの時代も、どんな些細な場面でも、物事の本質を見極める事ができない人間に成り下がるのが嫌で、それで、それらを描写せんと手にした筆が、今やその役割を果たす事なく目的を見失って何処かに転がっている様は、男にとって心底悲しい事であった。無論、自分という生き物がこの世の何者よりも惨めで愚かしい存在であるように感じられるのは、もはや言わずもがなであった。

 学生だった数年前までは、自身の感受性を最大限に拡張して、この色褪せた現代の1ページにキラキラと光る宝物を見つけては、それを描いて、歌って、綴って、語って、瞼が落ちるその瞬間まで、その煌めきを堪能するのが日常茶飯事だったというのに。いつから、その唯一無二の感受性は普遍的なそれに置き換えられてしまったのだろう。

「あの頃は、僕も君も、他の奴もみんな、同じくらいに輝いていた。本当に奇跡みたいな日々で……、」

言語化する意味が無い、見窄らしい愚痴だと分かってはいても、男は呟かずには居られなかった。その先を口にする事は躊躇われた。喉に絡む事なく、食道をストンと落ちていく透明でクセのない日本酒は、今は男の胃に馴染むようでいて、どこか辛いように思われた。

「だーかーら、それだよそれ。抽象的すぎて何も心に響いて来ないんだよ。酷いくらいに悲観的だし。君の感性はそんなもんか、実力はその程度なんか。……いいや、違うでしょ。ステレオタイプの価値観とユニバーサルな感性で、君という人間を語る事なんて絶対にできない。そんな辞書から引っ張ってきたような色味のない言葉の数々で、借り物みたいな文章を創るのはさっさと辞めた方が良いね。心底面白くないよ、そういうの。」

そう思って、と、彼女はその等身大の言葉を以て、矢継ぎ早に容赦なく、それでいて痛烈に男を批判した後で、安い酒が入ったグラスを空にして、続けた。

「そう思って、私、昨日、仕事辞めてきたの。」

一瞬耳を疑ったが、この女であればそれくらい突飛な事、簡単にやりかねないなと、すぐに思い直した。

「客商売はやっぱり良くないよね。自分を安売りするのが習慣になっちゃうよ。いつの間にか自分の本来の役割が、君が言うところの本質って奴が何なのか、面白いほどに見えなくなる。語彙力皆無な批評のそれだけど、本当に良くないんだって、そう思わされたよね。」

珍しく、端的で感情的な感想を吐くものだ。まるで、醤油に溶かれた山葵みたいだと思った。いや、適当な事を言ったのかもわからない。それでも、舌の上に僅かに残った山葵の主張が、鼻の奥に真っ直ぐ抜けていくような感覚が、たった今、印象に残っていた。

「そういう訳でね、今の私は自分を安売りする行為に敏感なんだ。本当にやめた方が良いと思うよ。面白くないから。せめて結びの文章についてはしっかりと推敲して欲しいものだね。『実際、その背中には、翼は生えていなかった。そういう風に物事を考える自分が、心底嫌だった。』って、これじゃあ書き手も読み手も救われないや。もっと大切にしなよ、自分も、自分の綴った文章の事も。」

 グラスに残った氷はもう既にその原型を留めては居なかった。その世界における本来の姿であるところの液体に戻って、彼らはまた、小洒落た照明の一部を反射して、キラキラと光っていた。その様子はやはり綺麗であった。綺麗だというのが今の自分の正直な感想であって、そこに浅いも深いも、関係無いと感じられた。

 

 本日、何度目かの勘定を済ませて、暖簾を潜る。昔ながらの藍染めだろうか。趣があって良い布だ。

「お会計どうも。これ、大体半分ね。」

数枚のお札と真新しい500円玉を渡される。礼を言って受け取って、まじまじと500円玉を観察する。初めて見るデザインだ。日本札のデザインが変更されるらしい事くらいは把握してはいたが、いつの間にかコインのデザインまで一新されていたらしい。自分の知らないところで、時代は一歩、また一歩と進みつづけているのだと思った。

「じゃあ君、今日から自由人か。」

「そうだよ、君と同じ自由人だ。」

気の向くままに言葉を交わして、都会の生暖かい風に当たっていたら、少し散歩がしたくなる。終電など疾うにない。それでも今日は、終わらない。26時は、僕らのものだ。

 少し街を逸れてしまえば、寂れた街灯だけが夜蝉の動力源になっている公園が見えて来る。外周ぎりぎりに敷かれたランニングコースが、散歩するにはあつらえ向きで、何となく足を動かしているのが心地良い。

「アクティブな趣味が欲しいなあって。」

月明かりが僅かにノった髪の毛を手櫛で整えながら、女は呟いた。

「仕事辞めてまで意図的に時間を作ったんだから、この数年で失ってしまった精神的向上心を取り戻せる活動を探さないと。このままYouTubeNetflixに生活が侵食されてしまうのはナンセンスのそれが過ぎるっていうものだよ。」

どうしてもやりたい事があって、時間に縛られたくなくて、仕事を辞めた訳ではないのだ。きっと君は、嫌というほど仕事とか社会とか、そういうデリカシーのない精神的圧力に支配された世界の本質を肌で感じていたのだろう。それはきっと視認できない程、自身の内側にまで入り込んで来ていて、自分が自分ではない感覚という奴を本能的に感じていたに違いない。

「せっかく音楽の才があるんだ。歌とか楽器とか作曲とか、久しぶりに再開してみたら良いじゃないか。」

何の気無しに、打診してみた。何の気無しに、と言うには語弊があるのかもしれないが、何となく頭に浮かんで来た、霹靂の欠片みたいな言葉をそのまま口に出してみた。

「きっと僕らが学生の頃に創っていた物よりも遥かに深みがあって、奥行きがあって、味わいがあって、素晴らしい作品を生み出せると思う。打ち込めば打ち込む程に、面白い経験が出来ると思うよ。」

しかし女は、肩を竦(すく)めて曰く、

「あまり気乗りしないな、今の擦れた心じゃあ『何か違う気がする』音楽しか演(や)れないよ、きっと。」

奇しくも身に覚えのある言葉で、何の気のない提案は却下されてしまった。当然、男は何も言い返せる筈がなかった。ただ何となく勿体無いな、という気持ちだけが微かに残った。そうして、公園のど真ん中で、今、四方から微妙に照らされている僕らの姿形の、何%が月明かりで出来ているのだろうかと、そんな事を思った。何とも言えない、ぼんやりとした曖昧な思考も、ここではそう悪いものではないのだと、誰かに諭されている気がした。

 小一時間は歩き回っていただろうか。気づけば二人は、数本の植木に囲まれたブランコに乗って、ゆらゆらと空間を揺蕩っていた。時々足が地面を擦って、これが現実の世界の出来事なのだと思い出させてくれる。

 「君みたいに、碌でもない文章を綴るのも気が引けるしなあ。かと言って、あれも嫌だ、これも嫌だじゃあ、それこそ精神的に向上心のない馬鹿に成り下がってしまうしね。」

地面を蹴って、空中で少し前のめりになりながら、女は言った。

「そうだなあ、何でもいいから一つ、熱中出来そうな趣味、挙げてみてよ。音楽と物書き以外で。とりあえず騙されたと思って、私という人間を構成する新しいパーツの一つにするから。」

「随分と粋な無茶振りだね。無茶振りである事に変わりは無いから、迷惑被る事に変わりは無い訳だけれど。」

「本当、斜に構えたような感受性ばっかり豊かだよなあ。もっと素直な会話が出来るように努力して欲しいものだよ。」

「本人の目の前で、そういう明け透けな酷評ができるメンタルも相変わらずだと思うよ。」

ブランコは揺れる。能動的に風を斬る感覚が堪らなく愛おしい。少しだけこの風を堪能して、少しだけ考えてみた。新しいパーツか。相も変わらず素敵なワードセンスだ。心と身体が最高に昂るのを感じていた。空を翔ぶ感覚だ。とても気持ちが良い。

「料理。」

男は女に言った。

「料理。面白そうじゃないか。拘り出したらキリが無いだろうし。何より、自分で美味いもんが食えるってのが良いよな。達成感もひとしおだろうし、アクティブな趣味としては丁度どんぴしゃなんじゃないか。」

ブランコから飛び降りて、対面の手すりに寄りかかる。女と目が合う。つぶらな瞳という奴だろう。心なしか灯りが反射して輝いて見える。相変わらず、透明度が高くて麗しい。

「中々良いセンスしてるじゃない。やっぱり君はそうでなくちゃあね。よーし、乗った。次会う時には手料理を振る舞う事にするよ。楽しみにしときな。」

女はまだ、ブランコの上で揺れていた。少しはにかみながら空を望む姿は、やはりどこか、空を翔んでいるようだった。

 


 少しずつ白くなりゆく人工物の境界線に見守られながら、僕らはそれぞれの帰路を歩み出す。

「君も何か、物書き以外の趣味を始めてみれば良いのに。」

別れ道でちょっと立ち止まって、下から覗き込まれるようにして、きっと、何の気もないだろう、そんな提案をされた。

「趣味くらい他にもあるさ。そうだね、最近のトレンドは友達自慢かな。」

少し得意げに、背伸びをしながら、僕は言った。

「明日会う友人に、昨日会った友人の自慢をするんだ。これでもかってくらいにね。僕には、こんな素晴らしい友人が沢山いて、そうして、目の前の君も、そんな大切な友人の内の大切な一人なんだって事を、伝えるって訳さ。」

分かりやすいフリだなあと、少し笑いながら、彼女は僕に聴いてくる。

「じゃあ、今日会うお友達に、私の事はなんて自慢してくれるわけ?」

ちょうど、太陽の光が女の背中から差し込んで、キラキラと光っている。強すぎる乱暴な光を浴びて尚、上品に輝く彼女は、間違いなく、今この世界で一番美しい存在だった。

「髪の毛がさらっさらで、目がくりっくりで、そんでもって背中にでっけえ翼が生えてる、最高の女ってところ

かな。」

茶化したように言葉を綴ったつもりだったが、彼女は満更でもないような表情を浮かべて、そのまま別れの言葉を口にして、行ってしまった。その後ろ姿を彩る髪の毛は、烏の濡羽のように艶やかで、正に自由の翼そのものであった。

 僕が描きたかった世界は、きっと今、その眼前に広がっていた。

 

 弥永唯 ー2023.12.09.

 

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