否唯なしに。

否唯なしに。

否唯なしに。

再生のイントロ

 シェイクスピアが喜劇を描いたように、時として私も素直な文章を描く日があっていいと思う。そういう形容が成立するほど、たぶんシェイクスピアは悲劇しか描かなかった訳では無いし、多分この文章も言うほど素直で分かりやすいそれには仕上がらないと思う。所詮、そういう曖昧な世界の中で、私はまた何度目かの再生の一歩を踏み出すのである。

 鳴り止まない感染症渦の最中、先日遂に当の流行り病に冒された。私としては正味ワクチンを打たずにパンデミック終結まで勝ち残る気満々だったが生憎それ程世間は甘く無かったようで、面白く無い限りである。そう、病魔に根負けしたというよりは職場のパンデミックの風に乗ってご多分に漏れずダウンしただけなので、結局負けたのは「流行り病そのものに」、ではなく、この「社会生活に」なのだろうと思う。別にだからどうという訳でもないが、結局そういう社会の歯車の一部に私も成り下がってしまったのだと切に感じずにはいられない。いつだって、人の道から外れ続けてファッションアウトローみたいにふわふわと生きているのが楽しかったのにな。そう思う。それでもなんだかんだ、人間は(それが例え本来的な意味における人間以外を含んでいるとしても)自身の現状維持と進化の為に、社会の大きな流れに身を任せて対して流れもしない変わり映えのない毎日を生きる必要があるようだ。ファッションアウトローみたいな、そういう中途半端な大事な友達もいつのまにか「みんな」それぞれの世界の中で社会に身を投じて生きている。

 存外、そういう面白みのない世界を肯定できる自分もいて、仕事で自分の無能では無い一面を眺めるのも、燻っていた能力もまた久しぶりに研磨される感覚も悪い気はしない。自身のルーツが自身に嘘を吐く事は無くて、やはり面白みのない世界の中にも面白い出会いはあるし、「まさか」といった価値観の一致もある。そういう時はこの社会というやつも捨てたもんじゃ無いよなと、素直に思う。寧ろこういう「まさか」を生き甲斐にして今日もまた面白みのない日常の繰り返しを歩んでいけるのだとも思う。そういうかけがえのない機会を生んでくれる素晴らしい人達との出会いに今日も感謝して一歩を踏み出す。

 どうしてもなんと無く文章を綴ろうとすると、こうやって抽象的な取り留めのないそれになってしまう。良くないなあと思う。でも具体的に追体験の如くそれを綴るのは難しいから、オリジナルの体験に申し訳ない気がする。本当はもっと私の素晴らしい体験とか、私の素晴らしい友達とか、私の素晴らしい考えについてもっとこの世界に発信したいけれど、中途半端な気持ちでそんな事は書けないと思う。きっといつだって、自分の事を無能だ下劣だと卑下しながらも、心の何処かで自分という存在は自分にとって崇高な存在なのだと思う。恥ずかしい気持ちが無いかと言えば嘘になるけれど、自分が自分の事を好きなのはこれから社会を生き抜く上できっと大事な事だと思っている。

 そう思って、また、流行り病から復帰した私は新しい気持ちで何度目かの社会への復帰を果たす。自身の再生の瞬間だ。両耳にイヤホンを差し込んでお気に入りの曲を流す。なんだかいつもよりbpmが早い気がする。Youtubeの再生速度が速いまま音楽を流してしまっただろうか。そんな事ない。曲の速さはいつも通り。それじゃあ気がつかない内に、私の耳が遅くなったのだろう。時にはこの世界の途中で立ち止まって、ゆっくりそれらに聴き惚れるのも悪くない。今回の束の間の休息は、そういう機会を知らない間に私に与えてくれていたのだろう。また次、五感を休めるその日まで、全力で頑張ろうと思う。

 

良い文章だ。自画自賛

おわり。