否唯なしに。

否唯なしに。

否唯なしに。

満員電車


 人生で初めて本物の満員電車に揺られた。文字通り数えきれない人間の、物理的な体積と精神的な質に押しつぶされて、自分という個と他人との境界線がわからなくなるような、そういう気持ちの悪さを感じた。没個性という言葉は存在するけれども、こうやって、彼らは自分という個を見失って、何となく社会という大きな体制に埋もれて形式的に生きていくのだろうと実感した。それでもきっと、その有象無象に埋もれながらも宝石みたいに煌びやかに輝くことを忘れない人間も幾人か居るのだろうし、その光を常に求めて走り続けられるくらい、己の精神聖域は守り続けようと思った。

 


 歳を重ねるたび、生まれ育った故郷よりも大きな街へ出て、そこで交友関係を築いて、暫く経って、またそれよりも大きな都市へ住まいを移して、また多くの人間と関わってきた。大きな都市には相応の情報と選択肢が膨大に存在して、自身の成長していく精神世界を満たすようにして、それは私の中に様々な価値観を形づくっていった。幼き日には怖くて意味がわからなかった映画も、成長してから美談である事を理解して、大人になってからその主題が単純に美しいものではない事に気づいたり、何となく好意を抱いた相手の事を、加齢と共に、自分がなぜ彼らを好きであるのか、自分にとって彼らがどのような影響を自身に与えてくれる存在なのか、言語化してそれを理解できるようになったりした。そうして今、精神の容れ物の大きさが、そろそろ最大値に近づきつつあることを実感している。私は、外界から流入してくる新しい情報や選択肢を、今までのように考え無しに受け入れて自分の中に取り込む事をしなくなった。必ずしもそこには、これまで自信が構築してきた価値観という名前のフィルターがあって、無意識的に自分にとって必要でないものを極端に拒絶する傾向にあるのだと思う。これから無意識的に生きていけば、きっと私にとって、これ以上の人間的な成長は見込めないのだと、何となくわかる。意識的に、積極的に、能動的に、私は、私の精神を豊かにしてくれる情報と選択肢を求めて物理的に行動しなければならない段階に来ているのだと思う。まだ若い魂は幸いなことにまだそれを望んでいるし、脳もそういう栄養を待ち望んでいる。

 


 物理的にも、精神的にも息苦しい満員電車の中で押しつぶされそうになりながら、このまま大都会に喰われてたまるかと、何となくそう思っている。私はまだ、強くなれる。