否唯なしに。

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悲劇の実存と悲劇のヒロインの乖離性について

 不届き者の友人が「悲劇のヒロインを演じるだけでは足りずに、××する事で本当に悲劇のヒロインである事を証明したんだな。」と言った。発言そのものが不謹慎極まりない事は言わずもがなだが、その時、悲劇のヒロインという言葉が妙に耳に触った。当時私は精神的にも身体的にも微妙で中途半端なコンディションだったけれど、あまりにも違和感が仕事をし過ぎて気持ちが悪かったので、無理矢理筆を起こしてこれを書く事にした。


 一般的な意味合いにおける「悲劇」は、日本語的な意味におけるハッピーエンドに終わらない劇という以外に、厳密な定義を有さない。従って、それが悲劇であるかどうかは演者や観者の価値観によっても異なるし、時代背景や社会情勢によっても捉えられ方は変化する。それは人生の有様によく似ていて、我々人間が悲劇という偶像をこれまで継承、発展させてきたという事実は、人生に対する最高級の賛美の形であると言っても良い。この、短く端的な解釈によって私があなたに伝えたい事は、人生は悲劇的であって、それを完遂する人間が美しいという事である。

 数年片想いしていた女に振られた。これは世間一般的に失恋と呼ばれる事象であり、悲劇的な出来事である。全国大会の予選会で、結果は惜しくも選考落ちだった。目標を達成できなかったという点で、悲劇的な出来事であると言える。100万円分宝くじを購入したが、高額当選は0枚だった。分かりやすく悲劇的な出来事であろう。しかしながら我々人間は、時として結果よりも過程を重視する生き物なのだ。失恋したという結果よりも、それに至るまでの男女の関係性の変遷に惹かれ、魅了されるものであるし、大きな挑戦は、その達成の可否も去ることながら、ゴールに至るまでの工夫や努力、彼らの情熱に感銘を受けるのである。少し極端で、且つ抽象的な例だが、こうして悲劇は、我々人類の生き様を本質的に良く表している芸術として、これまで受け継がれてきた訳である。

 この前提を元に、悲劇の本質に辿り着く鍵は「宝くじが当たらなかった」という悲劇が存在しない事にある。想像に難くはないと思うが、我々は「宝くじが当たらなかった」という悲劇的な出来事に対して魅力を感じない。過程が伴っていないからだろうか。否、そこに「100万円積んだ」という過程は確かに存在するのである。この違和感は例題の種類を少し変えて見る事ではっきり解る。ここでは、100万円分購入する物を宝くじではなく、馬券にしてみよう。同様に、我々は「100万円分購入した馬券が紙切れになった」という悲劇的な出来事に何ら魅力を感じる事はできない。それではこの結果に付加価値的な経緯を付け加えてみる。その馬はつい先日まで数々のタイトルを無敗で勝ち上がってきたエリート。しかしながら、とあるレースで骨折に見舞われ、暫しの休養を余儀なくされる。ファンの期待に包まれ臨んだ復帰戦では鮮やかな独勝。その直後に控えたビックタイトルでは当時人気だった別の馬を抑えて圧倒的な一番人気。実際の金額は分からずとも100万積む"ような"賭け方をした人も少なからず居ただろう。結果はまさかの、原因不明の大敗で11着。100万の馬券は紙切れとなった。この過程を以て「100万の馬券が紙切れとなった」悲劇的な出来事に、少し興味が湧いてきたのではないだろうか。実はこれは現実に起こった出来事(を端的に簡略化して描いたもの)であり、続きのストーリーが存在する。馬の名はトーカイテイオー。彼は1992年の有馬記念での大敗の1年後、1993年の有馬記念に還ってくる。根強いファンが単勝を買うも連勝は人気薄の彼は、そのレースで一番人気の馬と苛烈な叩き合いを制し、堂々の優勝を飾る。騎手涙の勝利インタビューが後世に語り継がれるドラマ的な歴史の1ページである。

 件の例題は、最期まで追うと結果的に喜劇的な性質のフィナーレを以て幕を下ろす事になる。しかし貴方はもう気がついている筈だ。この喜劇的なフィナーレは悲劇的な過程に支えられて存在している。もっと穿った表現の仕方をするならば、喜劇は悲劇の元に成立している。これ以上メカニズム的な話をするのはクドくなってしまうので敢えて言及を避けようと思うが、我々人間は悲劇を生きるから人間なのであって、即ち、悲劇とどのように対峙するかという部分にそれぞれの人間性が垣間見られるが故に、悲劇を生きる人間が美しいと、我々人間が感じられるのは謂わば必然なのである。「100万円分の宝くじが紙切れになった」という悲劇的な出来事に我々が魅力を感じられないのは、そこに悲劇と対峙する人間の人間性が、言い換えるならばドラマ性が見えて来ないからである。つまり、悲劇の本質は、悲劇の中心に在るのは人間であり、その人間が織りなすドラマこそが悲劇なのである。

 このような悲劇の実存性について理解ができるのであれば、貴方はもう「悲劇のヒロイン」の違和感の正体に思い当たる筈である。ある種、忌避的な意味合いにおいて使われる「悲劇のヒロイン」という言葉には「周囲に自分が不幸であることを過剰にアピールする女性」というニュアンスが含まれる。(ヒロインが女性を指し示す言語であるから女性と表記しているだけで、男女の相違はここでは問題ではない。)このニュアンスの中心にあるのは、悲劇そのものか、或いは不幸であるという自身の状況であるといえる。皮肉にも、悲劇の本質が人間であるのに対して、悲劇のヒロインの本質は悲劇的な出来事(状況)であり、つまりそれは「100万円分の宝くじが紙切れになった」という事そのものなのである。悲劇のヒロインは「悲劇のヒロイン」であるからつまらない。別に悲劇と闘う必要なんてない。悲劇を恨もうが憎もうが、そもそも眼中に入れなかろうが、なんだって良い。「悲劇のヒロイン」であることを良しとするな。悲劇の「ヒロイン」であれ。それが自分の理想的な姿でなくても、自分にとって納得のできる結末でなくても、悲劇の「ヒロイン」であったその時間は、必ず、自分にとっての財産になる。「悲劇のヒロイン」ではなく悲劇の「ヒロイン」であろうとした事に意味があるのだ。そういう意味の上で、私はきっと悲劇が好きで、人間が好きで、また同じくして私の耳は「悲劇のヒロイン」という言葉を嫌ったのだと思う。人間は皆、この厳しくも苦しい世界の中で、それぞれに美しく生きて、そしてそれぞれの未来へ羽ばたくべきだ。


 書きたかった事は概ね書いたつもりではいるけれど、体調が今より良ければもっと論理的に主題を論じれたかもしれないし、体調が今よりも悪ければもっと情叙的に主題を訴えられたかもしれないとも思う。私は、私の状態が、私の筆と奇跡的にペアリングできた時でないと自分が本当に描きたい景色が描けないという事を最近になって漸く理解できてきた。それでもこの文章に限って言えば、シンクロナスな状態で筆と向き合った事が、これからの私にとっての財産になるであろう感触を確かに得られたと思う。


おわり。