否唯なしに。

否唯なしに。

否唯なしに。

ゆりかごへ

まえがき

 小さな頃は、自身の掌よりも大きくて分厚い本の中にある世界に入り浸るのが好きだった。簡単で分かりやすいストーリーやキュートでチャーミングなキャラクターよりも、言葉を尽くして細やかに綴られる為人(ひととなり)や、リアルで不完全な人間関係性の上に語られるドラマに強く惹かれた。物語の結果よりも、その結果に至るまでの人間の思考過程と、それが組み立てられる所以たる各々のルーツを丁寧に描いてくれる、書き込んでくれる作品を鑑賞するのが楽しかった。歳を重ねるにつれて自由に弄べる時間が減っていき、そういう文字のウェイトが大きな作品は手に取ることが少なくなったけれど、徐々に成熟していく精神と拡張されていく想像力は、ショート・ショートや現代抽象画、和歌集や写真など、限られた手段で我々に主題を訴える作品を好む原動力となった。興味を示す媒体が変わっても、興味を示す対象は元来変わらずに、この歳になってもまだ、人間と、その思考について考えさせられる作品に触れるのが、何より生き甲斐であると感じられた。

 とりわけ、わたしの私生活に影響を及ぼしたのが短歌(和歌)であった。何故わたしが短歌に執心するようになったのか、きっかけはどうにも思い出せそうになかったが、いつの日からかそれはわたしの傍らで、さまざまな人間の内面の様を、有りのままに、それでいて斜角的に緩く、そして的確に詠んでくれた。そこには言葉そのものの意味以上に解釈のしようがあって、解釈の方向性によって相反した人間性に邂逅できる瞬間は格別におもしろかった。例えば、それが最も顕著に顕れた作品として、日本で最も知名度が高いであろう、藤原道長の詠んだ歌が挙げられる。

この世をば我が世とも思ふ望月の欠けたることもなしと思へば

これは元来、傍若無人の限りを尽くして権勢を奮った道長が「この世で自分の思うようにならないものはない。満月に欠けている物が無いように、全てが満足に揃っている。」と彼自身の人生の春を詠んだ歌と解釈されてきた。しかし近年は、彼の三女の婚姻祝いの席で「今夜は心から楽しいと感じる。空の月は欠けているが、私の月、即ち『后となった娘たちと、宴席の皆と交わした盃』は欠けていないのだから」と、娘の幸せと、それを家臣皆々と祝えた事に対する喜びを詠んだ歌であるという見方が強まっている。これは突飛な思いつきによる解釈ではなくて、さまざまなルーツに則した非常に論理的な解釈であって、和歌の奥深さが実感できると共に、藤原道長の才覚とその二面性とも取れる為人が垣間見える、短歌を嗜む上での醍醐味的な要素を味わう事ができるというわけである。

 蛇足ではあるが、この歌を詠んだ後で道長が家臣に対して返歌を要求した際、家臣がそれを拒み、皆でこの歌を讃唱した、というエピソードもまた有名である。果たしてこの家臣は、道長の傲慢さに呆れ果てながらも、場を取りなすために歌を唱和するよう提案したのか、はたまたこれからの藤原家の発展を祈り、家臣共々結束を強めようとそれを提案したのか。真偽の程は今となっては誰にも分からないが、「返歌を詠まなかった」という異例の事態そのものに強い意味が込められている事に違いはないだろう。

 戯言が過ぎてしまったが、ともかく、その頃の私の人生の半分くらいは、短歌というパーツで構成されていると云っても過言ではなかった。それでいて、私にとって短歌が、どのような存在なのか、何のために存在しているのか知らなかった。今思えばそれは知らないフリをしていただけだったのかもしれないが、私はその本質からは目を背けながらも常に短歌と対峙し、短歌に縋り、そして短歌を愛して生きていた。