否唯なしに。

否唯なしに。

否唯なしに。

24が語る「カフカの変身」と、信じる意味についてとか。

 ある朝、グレゴール・ザムザが目を覚ますと、彼は巨大な毒虫に変わっていました。グレゴールは旅廻りの外交販売員としてその日も仕事に行かないといけませんでしたが、思うように身動きが取れず、例え動けたとしてもこの姿を公衆の面前に晒せるはずがありません。一向に起きてこないグレゴールを家族や職場の人間は訝しみ、グレゴールは自分の置かれた状況を説明しようとするも、すでに人の理解できる言葉を話せなくなっていました。

 毒虫となったグレゴールを家族は恐れますが、唯一、妹のグレーテだけが彼の世話をしてくれました。とはいえ、そこには嫌悪感が入り混じり、グレゴールはグレーテに気を遣ってなるべく姿を見せないようにします。グレゴールの稼ぎに頼りきっていたザムザ家の財政は程なくして立ち行かなくなり、高齢で尚且つ持病もある父母が働きに出ざるを得ないことになります。

 グレゴールが部屋に閉じこもって何か月も経過し、次第に家族のグレゴールに対する態度は悪化していきます。厳しい生活に失望する家族たちの中で、グレーテは「もうグレーゴルを見捨てるべきだ」と言い出し、父もそれに同意します。やせ衰えたグレーゴルは家族の姿を目にしながら部屋に戻り、家族への愛情を思い返しながらそのまま息絶えてしまうのです。

 「ある朝、グレゴール・ザムザが不安な夢からふと醒めてみると、ベッドのなかで自分の姿が一匹の、とてつもなく大きな毒虫に変わっているのに気がついた。」という、衝撃的な一文から始まるドイツ作家のフランツ・カフカによる名著「変身」。この小説は、何故主人公が毒蟲になってしまったのか明かされぬまま、最期まで人間に戻る事なく完結してしまう、有体に言えば「よく分からない小説」である。本作を初めて手にとった高校生の少年にとって、導入も結末も不可解な、何の為にあるお話なのか理解できない代物だった。コンテンツそのものが長すぎて主題を掴むのが難しい、谷崎潤一郎細雪や、夢野久作ドグラ・マグラとはまた異なり、それはとどのつまり「読んでいてもあまり面白くない」著作であった。

 そうしてその時分から随分と経った。私は24になった。学生でも社会人でもない、何の為に今を生きているのか分からない、正確には学生の本文を全う出来ずに社会の歯車になる事にも失敗した、そんな一年を過ごした後で、私はふと、カフカの変身の事を思い出した。ちょうど、無理矢理現状を打破して、自身を取り巻く環境を変えようと試みていた頃であった。つまり、成程今の私の状態は毒蟲のそれなのか、と急に思い立ったのだった。中学生の頃分からなかった、「ある朝、不安な夢からふと醒めてみると、ベッドのなかで自分の姿が一匹の、とてつもなく大きな毒虫に変わっていた」という状態を、皮肉にも自らの身体で経験する事でそれが指し示すところの意味を理解したのである。同時に、これは中高生には理解出来ないだろうと、苦笑が漏れた事は言うまでもない。そのテーマを文面の上で解ったとしても、それを本質的な状態において理解する事は到底無理な話であろう。

 この不条理が蔓延する世界において、我々人間は自分自身で自分という人間を構築する事を強いられる。そして人間は「予め読まれる為に存在する本」や「予め食べられる為に存在するパン」と真逆の「意味を持たないまま存在がスタートする」生物である。すなわち、「本質が付与されるよりも先に実存が在る。」という奇妙な状態に、常に我々は置かれている。(これを「実存は本質に先立つ」といい専門的にこれは実存主義と呼ばれる。)そして、本質を伴わずにこの世界に投げだされる我々は、果てしない不安を感じずにはいられないのである。この不安を脱却する為に、人間は自身を構築し、主体的に生きなければならないというわけだ。

 作中において主人公のグレゴールは毒蟲になるまで「感じの良い外交販売員」であったり「一家の大黒柱」であったり「妹思いの優しい兄」であったりと、複数の本質を築き上げていた。しかし毒蟲となったグレゴールは、それまで自身が築き上げた本質を全て失い、また一からそれを構築しなければならなくなったのだ。しかし人間でなくなってしまったグレゴールにとって、人間としての本質を積み上げることはもうできない。何らかの不可抗力でグレゴールが迷い込んだ不条理の世界では、不安から逃れる方法はもうないのである。これらの本質を失ってしまったグレゴールに対する家族の当たりは徐々に変化していく。それはつまり「家族の一員としての本質を持たぬグレゴール」を引いては「家族にとってグレゴールの存在自体が要らない」と解釈した事で生じた哀しい結果であると考えられる。これが所謂、「本当に『変身』したのは毒蟲になったグレゴールではなく、家族の方だった」という有名な解釈のそれなのではないかと思う。

 私自身これまでの24の人生の中で幾つも本質を創り上げては、何らかの理由で(不可抗力も含めて)それらを失ってきた。全てを一度に失った経験こそ無いものの、これまで自身が築いてきた仮面の一つが剥がれて無くなる瞬間は(剥がれた事に自分が気がつく瞬間は)、酷く苦しく、それこそ虫ケラにでもなってしまいたいと形容出来そうな、大いなる不安に襲われるという事を知った。しかし、その時実存としての自分が無くなったわけでも、はたまた変身して別のものになりかわったわけでもなく、自分自身は自分自身であり、変わったのは外界からの自身の見た目(評価)であるのだった。(結局のところ、それが一番人間にとって不安材料となるわけだが。)カフカの変身という作品はつまり、そういう事を言っているのだとこの歳になって初めて解った。

 話は変わるが、ある若い女優が「信じる」という事について次のようなコメントを残している事をご存知だろうか?

「『その人のことを信じようと思います』っていう言葉ってけっこう使うと思うんですけど、『それがどういう意味なんだろう』って考えたときに、その人自身を信じているのではなくて、『自分が理想とする、その人の人物像みたいなものに期待してしまっていることなのかな』と感じて」
「だからこそ人は『裏切られた』とか、『期待していたのに』とか言うけれど、別にそれは、『その人が裏切った』とかいうわけではなくて、『その人の見えなかった部分が見えただけ』であって、その見えなかった部分が見えたときに『それもその人なんだ』と受け止められる、『揺るがない自分がいる』というのが『信じられることなのかな』って思ったんですけど」
「でも、その揺るがない自分の軸を持つのは凄く難しいじゃないですか。だからこそ人は『信じる』って口に出して、不安な自分がいるからこそ、成功した自分だったりとか、理想の人物像だったりにすがりたいんじゃないかと思いました。」

 このコメントを聴き知ったのはもう一年以上も前の事になるが、正に彼女が言っている事が、カフカの変身の真髄を言い表していると言っても過言では無いと思われてならない。つまり、グレゴールの家族は、自分達が思い描くグレゴールとは違った姿のグレゴールを目の当たりにして、言い換えるならば「グレゴールをひとつの本質でしか思考出来なかったことで」、その本質を失ったグレゴールを信じる事が出来なかったのである。グレゴールを信じる事ができなかった彼の家族は、グレゴールにとって「変身してしまった」と考えられるわけである。現に蟲になってしまったグレゴールは、初め自分の置かれたら状況を他人に説明しようとしたり、家族の迷惑にならないよう自室に閉じこもっていたりと、ある種「蟲と表現されながらもその所作はまるで人間のそれである」事がよくわかると思う。即ち実存としてのグレゴールは最期までしっかりと生きており、寧ろ変身してしまったグレゴールの家族が彼の終焉に拍車をかけたとも言える。

 このように、不条理が蔓延するこの世界の中で、いつ我々はその重要な本質情報を剥奪されるかも分からないし、若しくは目の前にいるよく気心が知れた人間の本質が急に変貌するかも、それは我々の想像をとどまることを知らない。しかし、そのような不慮な事故に遭遇した人間を救うのはやはり、世界でもその人自身でもなく、その人間を取り巻く人間(他人)なのだと思う。我々人間が、多くの人間とこの不条理が絶えない世界において共生するという事は、その世界の為でも、自分自身の為でもなく、やはり他人の為に本質情報を築き上げるのは自明の理であると考えられるし(結果的にそれが自身の利に帰結するわけだが)、引いてはその本質が壊れた時に実存を、一時的に外界から守ってくれるのもやはり他人であると思えてならないのである。

 だから今日も、我々はこの不条理の中で、必死に自身の本質を創り上げて、そしてそんな人間を信じて、慈しんであげよう。そうすればきっと、急に人間が変身したとて、優しく許される世界がそこに広がるだろう。

 

たいありニート、たいよろ社会の節目に。

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