否唯なしに。

否唯なしに。

否唯なしに。

冗談という言葉は果たして免罪符たり得るのか。

 友人に「それは、仲間内で太っているやつにデブと言って揶揄って、当人から不快だと抗議されたら冗談なのに本気にするなよって相手にしないのと変わらないんじゃないかな」と言われたことがある。

 


それを聴いて初めは、議論の摺り替えなのではないかという印象を抱いた。何故ならそのシチュエーションは「世間一般的に」あまり良くないといえる状態を「冗談」という免罪符を切って浄化しているから。つまりは、冗談を言った側が罪を認識した上で、能動的に「冗談」を免罪符として使用し、自身の行為を正当化しているためであるといえる。しかしながら件の例が理論的に正しい事は良く理解できたので、違和感の正体を突き止めるべく、少し自身の中で消化して、考えてみる事にした。

 


大抵の場合、「冗談だから」とか「本気にするなよ」とかいう人間は、本当に「冗談」としてそれを言ったり行ったりしているのだと思う。言い換えるならば、「その行為が冗談で通ると無意識的に見越して」そういう事をしている。その判断基準は自身の価値観に委ねられたもので、これを当人は「世間一般的な価値基準」だと思っている。よくある「みんながそうだから」とかいう不特定多数を根拠なく主語に据える例の一つと言える。

 


対して冗談に対して抗議する側の人間は「虐めは虐められた側が虐めと認識した時点でそれは虐めだ」という理論武装の元、確かな勝算を持って抗議していると思われる。正確には自分が理論上負けないという保険を認識した上でそうしている。ここで「虐めは虐められた側が(以下略)」というそれもまた、当然の事ながら自身の価値観に委ねられたものである。性格の悪い書き方をしたが、これは「過程がどうあれ最後に嫌な思いをした此方側が被害者だ」とかいう暴論ではなく「事実上此方側に非がないとした上で」そのように結論づけられたきちんと理に叶った主張である事を理解しておきたい。

 


こうして、先に挙げたデブと揶揄する一件とは異なり、使用者が免罪符としてではなく、冗談を本来の意味による冗談として使用していると考えられる場面において、使用者と被使用者は共にお互いの価値観に基づいたお互いの正義のもとに、相手の方が間違っていると考える構図が完成する。この状態を双方の意見を尊重した上で解決する事は不可能であると考えられ、一方が折れるか、若しくは喧嘩両成敗という形で双方がこれに目を瞑る事でしか、和平の道はあり得ない。何故なら双方の主張は価値観の相違によって異なるものであり、何方かに無理に非を認めさせる事は、強制的に価値観を押しつける事に他ならないからである。すなわち、何方かに非を認め「させた」時点で、正義であった側は「価値観を押しつけた」という業を背負うのである。

 


このように、「それは、仲間内で太っているやつにデブって言って揶揄って、当人から不快だと抗議されたら冗談なのに本気にするなよって相手にしないのと変わらないんじゃないかな」と言われた時に自身が感じた違和感のそれは「冗談」という言葉の使われ方にあるらしく、つまり、「冗談」を免罪符として使った瞬間に、冗談は「免罪符」として機能しなくなるのである。そして、「冗談が免罪符として使われたかどうかの判断は各々の価値基準に委ねられる」というわけである。

 


何故ここに争いの種が生まれるのか、何となく本質の片鱗を見た気がしてくるのではなかろうか。

 


基本的には自身と相手との関係性から、ある程度価値基準の特異点に検討をつけた上で人付き合いというのは行われるので、頻繁にこのような問題が起こるとは考えにくいが、このようなシチュエーションに遭遇した時はお互いの価値観の違いを見つめ合える良い機会だと思って、各々相手を理解する様に努めたいものである。

 


これも一つの価値観の元に綴られた文章なので勿論異論は認められる。

おわり。