否唯なしに。

否唯なしに。

否唯なしに。

サイレントマジョリティ

 国民の6割が国葬に反対していた筈なのに、実際にデモに参加した人は数百人程度。一方参列者は長蛇の数。マスコミが誇大報道、プロパガンダを打っているのは明らか。最早メディアは私達の知らないパラレル日本を創り上げているのかもしれない。

 

………。そう言って、きっと私の数倍は長生きしているであろう皆々様方は、国葬に参列した方々をサイレントマジョリティと評したいらしい。こういう「馬鹿丸出し」の書き込みとか主張を見るたびに、彼らはどこで思考することをやめてしまったのだろうかと思われてならない。いつか自分もそうなってしまうのだろうかと哀しい気持ちになる。昔は厳格だと思っていた父も、最近は言動に整合性が無くて嫌気が差してしまうし、ふとした瞬間に自身が思考停止していると自覚してしまうタイミングも減ってきた。減ってきたという事は、自分で自分の過ちに気づく事ができなくなっているという事だ。こういう時に限っては、まったくもって人間、面白くない生き物だと考えずにはいられない。平和ボケした日本に在って、きっとこれは幸せな悩みのそれなのだろうけれど、それでも将来憂いて嘆かずにはいられない。

 

そう、きっといつかサイレントマジョリティの一員である事を無意識的に望んで、そこにマジョリティはないのに、マジョリティであるかの如く、勝手に思い違いをして生きていく事になるのだろう。それはなんてつまらない人生だろうか。

 

追記 

そういうわけで、件の話題についてのあれこれを目にするたびに日本人の愚かしさを見せつけられているようで不愉快な気分にさせられて敵わなかった。きっとそれについて触れたならばそれは同属の証明のようで、意識的に筆には起こしてこなかったが、今日、菅前首相の追悼の辞を聴いた事で考えが変わった。なんというか、人間の人間たる所以というか、この地球上で唯一言葉を使える生物として、その言葉を存分に使いこなして、サイレントマジョリティの心を少しだけ動かすような、そういうメッセージをあの方は読まれていたように思った。サイレントマジョリティサイレントマジョリティたる所以をもってそれであり続けるわけであって、そうあるならばその心に干渉できる人の言葉というのは、大事に覚えて置かなければならないだろうと、そして筆を起こすに値するだろうと思った。そういう人がこの国の実質的なリーダーであった事を考えると、まだまだ未来も捨てたものではないのかもしれない。

 

おわり。