否唯なしに。

否唯なしに。

否唯なしに。

欠陥であると理解っているのに。

 「それが欠陥だって理解っているなら、さっさと直す努力をしろ」

という理屈は、一見正しいようでとある場合には成立し得ない順接事項だと思っている。

 人間は等しく愚かな生き物である事は百も承知であるが、等しくある程度の理解力を有している生き物である。従って、自身の行動に関する欠陥であったり、自身の性質上の欠陥については、ある程度のレベルであれば自分自身で理解しているものであるし、理解できる者に関してはまもなくそれは修正される。ある程度の例外は認められてしかるべきだが、大方、問題の大小に関わらずこの法則は成立するであろう。

 しかしながら人間はやはり愚かな生き物であって欠陥を修正できないケースというのは数多く存在する。散見されるのは「それが欠陥だと理解できない」パターンであり、(これについては個体差を憂うざるを得ないが)欠陥を欠陥だと認識されていないのだから、修正されないのは当然ともいえる。これは上記の前提条件を満たしていない事項であるから言ってしまえば蛇足である。

 もう一つ、永遠に修正されない欠陥について人間の性質的な欠陥に関するものが挙げられると思っている。成人して、二十数年も生きている人間で有れば少なくとも幾つかは「自身の性質的な欠陥」を自覚しているものと思う。これらは成長の過程で欠陥であると本人に認識され、「既に修正される為の努力が為されてきた」欠陥であり、その意味で、「欠陥であると理解っているのに修正されない欠陥」であると言える。これについて、多くの人間はこの欠陥そのものを修正する努力をするのではなく、欠陥によって引き起こされる不都合な事象をカバーする引き出しを増やすなどして対応していると考えられる。即ち「欠陥が修正されない事を理解した上で」、「欠陥による被害を最小化する方向性に努力のベクトルを変更する」のである。

 従って「欠陥であると理解っているなら修正する努力をすべき」という順接事項は、あるケースにおいては成立し得ない理屈だと思われてならない。上記の歌い文句は言ってしまえばただの綺麗事であって、どう頑張っても修正され得ない欠陥と隣合わせの人間が、どうやってそれをカバーするのか、そこに目を向けてもっと人間という生き物を理解するべきだと思う。

 そこには愚かな人間の、数少ない美しい姿が、「人間らしさ」が見られると、私は常々思っている。そんな、人間らしい人間が私は酷く愛おしいと感じる。

 

おわり。