否唯なしに。

否唯なしに。

否唯なしに。

罪と大罪

 きっと、罪と大罪の話の事を皆様にもご理解頂けるだろうと思う。無論「罪」の価値基準は大方人それぞれ違っていて、それを共有(強制)しようというつもりは毛頭ない。とはいえ、その実例がないとどうにも説明のしづらい題材であるが為、誠に僭越ながらここでは筆者の価値基準を以てその例示に替えさせて頂こうと思う。

 例えば、どのフィールドにおいても無知と弱者は「罪」であり、顧みるべきネガティヴポイントである。この世界は強い奴が偉いし、有識者が得をするし、要領の良い者が勝利するように出来ている。紛れもない事実であって、どのような註釈や留意事項がくっついてきても揺るぎない結論である。即ちこれは「知らない」事が罪であり、「弱い」事が罪であると同時に、「知ろうとしない」事もまた罪であり、「強くあろうとする」事もまた罪であると言うことになる。

 しかしながら人間は常に罪を負う生き物であって、私はある程度罪を抱えて生きる人間に対して、それは仕方の無い事だろうという批評をせざるを得ない。従って罪を負い続ける自身の存在を否定する事もない。

 翻って、やはり許されない罪の種類もそこには存在していて、言うなればそれは表題で示すところの「大罪」にあたる。無知が罪であって、無知を脱する努力をしない事が罪であるならば、ここで言う大罪とは何を指し示すのか。正解は「有知であるのに無知と同等のパフォーマンスしかできない」事だ。弱者の項で例えるならば「強者であるのに弱者の地位に甘んじる」とでも表現できるだろうか。

 とにかくこの「できるのにやらない」という奴が私は大嫌いで、等しく「できるのにやれなかった自身の存在」は到底許す事はできない。滅多な事では堪忍袋の緒が切れる事はないが(もうそんな年齢ではないが)、できる(理解できる)のにやらない瞬間を目にした時に、大罪を犯しているシーンを見かける度に、腑が煮え繰り返りそうになる。

 きっと自分はそんな愚か者になってやるもんかと、日々を生きるているが、それでも大罪を犯す事は良くある事で、その度に私は死にたくなる。

 とても悲しい。

 

おわり。