否唯なしに。

否唯なしに。

否唯なしに。

「溺惑的エネルギー」

 微風が木漏れ日と戯れて、まるで水面のようにゆらゆらと揺れているのを眺めていると、さっき僕が買ったのと同じ色のエナジードリンクを片手に、「君」が購買から出てくるところを目の当たりにしてしまった。短くて軽いブラウンの髪の毛は、木漏れ日と共に残暑の隙を揺蕩う。曰く、風は、美しい被写体と共にあってはじめて、その本質を僕らの目に示してくれるらしい。 

 

「研究棟バッチリ見えるような場所で黄昏てるの、ほんと笑っちゃうな、」 

 

 もうあの建物なんか見たくもないんだけど、と言わんばかりに、呆れ顔で「君」は言った。僕らは久しぶりの邂逅を祝してエナジードリンクの缶を交わす。所属している学部が違うと、同じ大学に通っていても滅多に顔を合わせることはない。ましてや学会の開催を間近に控えた学生であれば、研究室に幽閉されることはお約束のそれだ。この時間にエナジードリンクを補給しているということは、「君」もまた、僕と同じように今夜も0時コースの住人だろう。

 

 他愛もない世間話をして、すぐに僕らは別れた。時間と空間が、僕らの余暇を許してくれない。腹ただしいことこの上ないが、どうすることもできない。大抵の理不尽は笑い話に昇華できるくらいのメンタルを持ち合わせてはいるが、こればかりは、この不条理ばかりは、本当に身に堪える。

 

 こんな、何の面白みもない俗世間の何もかもを全部かなぐり捨てて、今すぐ「君」に飛び込めたらどんなに楽だろうか。「君」に溺れられたらどんなに良いだろうか。

 

 会いたい時に会えないもどかしさと

 話したい時に話せない辛さと

 時間と場所を共有できない哀しみと

 丁寧に人間関係を築きたい気持ちと

 日々キャパオーバー気味のタスク量と

 いつまでも安定しない進路と

 近しい人間への嫉妬心と

 友人としての葛藤と

 失敗できないというプレッシャーと

 間に合わないかもしれないという恐怖と

 一人の人間としてのプライドと

 数年前から抱える僕の気持ちを、全部。

 

 それらを全部、運動エネルギーに変換して。もはや姿も見えない「君」の元へ飛び込んだら、そうしたら、きっと僕は、溺れてしまうだろう。身体中がドロドロに溶けて、頭の上の方が熱くなって、心臓だけを何かに掴まれて引き抜かれたような、そんな原型も残らないようなボロボロの状態になって、僕は「君」に溺れるんだ。溺れたいんだ。

 

 そのとき、「君」は果たして一緒に溺れてくれるのだろうか。

 

 帰路の途中で、購買のゴミ箱に空き缶を投げ入れ、研究室への帰還を急いだ。

 

 いつの間にか日が落ちている。

 風は、もう見えない。

 

弥永唯 ー2021.08.28