否唯なしに。

否唯なしに。

否唯なしに。

八日目の蝉の哀しみ

 最近、蝉の鳴き声が落ち着いてきたようにも感じる。丁度暑苦しい感じの、所謂「蝉」といった奴らの鳴き声が少なくなって、代わりにヒグラシのようなサラサラとした、耳障りの良い鳴き声の分量が増えてきた、典型的な残暑、初秋といったところか。

 

 夏になるといつも、嫌でも蝉について考えさせられる。ありきたりな、というか一般常識のそれだが、彼らは何年も土の中で幼虫時代を過ごした後、突如として地上へと姿を現し、そして七日間だけ鳴いてその生命活動に終止符を打つ。蝉にどこまで仲間意識、群れ意識の類があるかどうか、そんなものは知る由もないが(ただ僕が浅学なだけでもあるけれど)、どうしても僕は、仲間に先立たれる蝉の気持ちを考えてしまう。まさか昆虫に、そんな事を考える本能的な何かが備わっているとは思えないが、それでも数多の仲間達に先立たれる蝉の、その哀しみを想像してしまう。

 

 私情で大学を留年した僕は、未だ学生の街で醜くも生きているが、以前、共に足掻いていた仲間達は、もう既に次のステージで、別の場所で新しい人生を送っている。別に先立たれたわけでもなければ、必要が有ればコンタクトを取ることも可能なわけで、別に不都合はないわけだが、それでもやはり残留している側からすると、非常に寂しく哀しいものである。だから、夏になって蝉の鳴き声を聴くと何か同情に似たような感情を味わう事になる。

 

 全然関係ない、、、なくもない話なのだが、「八日目の蝉」という作品がある。原作は確か角川文庫あたりから出版されていて映画化もされている。僕はこの「八日目の蝉」という作品を名前だけ知っており、まだ拝見したことがなかったので、良い機会だと思って映画の方を視聴してみる事にした。

 まあ、見てよかったと思える作品であった。完全に偏見だが、映画化される日本の人間作品は割とキャラクターの深部を意図的にクローズアップしてくれるので、割とどの作品でも楽しんで観ることができる。そんなわけで良作だったわけだが、肝心の「蝉」については作品の大筋とは関連性がなく、所謂、暗喩的なモチーフとしての起用であったようだ。個人的にはこのような何気ないオブジェクトの比喩起用は結構好みなので、納得のタイトル回収ではあった。(例によって、計画的にネタバレするのは面倒なので、何言ってるかわからないかもしれないけど勘弁)

 「もし八日間生きる蝉が居たとしたら、七日目の蝉が見られなかった景色が見られるからその蝉はラッキーかもしれないね」といった意味合いでの「八日目の蝉」ということらしい。しっかり序盤に「八日目の蝉は他の蝉に先立たれるから寂しいだろうな」といった伏線のようなものも貼られていて、結構丁寧なタイトル回収だったが、作品の大筋と絡めてそれを理解するのは少し難しいようにも感じられた。まあ、安直に解釈するなら「明日見られるかもしれない景色に希望を見出して今日を生きよう」みたいな感じになるのだろうか。こんな風に書いてみると、自分の感受性が衰えているように思われて嘆かわしいが、ともかく、作品自体は非常に良い物だったので気になる方は是非。本当に蝉、関係なくて、多分「母性」と「それを享受する側」をテーマにした良作だと思う。

 

 だいぶ脱線したが、今回僕は、この「明日の景色を見るために今日を生きる」という考え方に、大きな違和感を覚えてならないが故に筆を取った。果たしてその景色には「仲間を失う哀しみを負ってまで見るほどの価値」があるのだろうか。もちろんそれは見てみるまではわからない「シュレディンガーの景色」であるわけだが、現実問題、我々は明日を生きる為に仲間を見殺しにするのだろうか。(これは穿った書き方だと思うけれど)しかしながら、冷静に考えてみると今日の友人より明日の自分の方が大事かもしれない。もちろんTPOにもよるし、ケースバイケースだとも思うが「八日目の蝉」問題は、単純に見えて実は非常に難しい命題なのではなかろうか。

 

 僕自身は、社会に出るリミットを数年先延ばしにした事で新たに得られた人間関係もあるし、その期間に別な角度から自身を見つめることができたと思っているので、「後悔」はしていないが、それでも一抹の虚無感を感じたり寂しさを覚えたりする機会は少なくない。そんな時決まって、外で何気なく鳴いている蝉も、同じ気持ちなのかもしれないと、ふと思ってしまうのだ。

 

 果たして僕は、八日目の蝉のように今日の哀しみを克服して、明日を見ることができているのだろうか。

 

おわり。

 

シュレディンガーの猫のお話はそもそも外的要素がないと成立し得ない思考実験のお話なので、使い方としてはだいぶ間違っている筈ですが、いうてニュアンスとしては結構それっぽいかと思って引用してしまいました。