否唯なしに。

否唯なしに。

否唯なしに。

人はそれを、概念渇望症と呼ぶ。

 目が覚めた。携帯で時刻を確認すると午前3時を少し回ったばかりだ。なんでこんな時間に目覚めたのか、自分でもわからない。携帯を触ったついでに通知がありそうなアプリを立ち上げる。E-mail、Discord、LINE。で、最後にTwitterを開いてタイムラインを覗く。数時間前にツイートされたもの達を眺めて、そしてしばしの間、何の時間かもわからない不明瞭なそれに揺蕩った後で、新しく更新されるツイートが無くなったことに気づく。午前3時半。Twitterは新しい呟きを僕らに提供してくれない。そうして、これもまた何と呼べば良いのかわからない喪失感がやってくる。何か物足りない、何かが欲しい、その何かもわからない、ぞわぞわとした気怠げな感覚が僕らを支配する。

 この気持ちはなんだろう。僕らは今何を求めているんだろう。何に不満を感じているのだろう。何度考えてもわからない。ただ、更新されないタイムラインにひどく寂しげな雰囲気を感じて、そこに、何か明るい光が差し込まないかと淡い期待のようなそれを抱いている。

 誰もいない空間で、一人考える。どうやら僕らが求めているものは何かであって何物でもないらしい。何か特定のそれが欲しいのではない。特定できるそれが欲しいのだ。タイムラインの呟きを求めているのではなく、タイムラインの更新を切に願っている。きっとそんな、不透明で都合の良い、自分だけがルールのような世界で揺蕩い続ける僕らが、そこにはいる。

 

 もうすぐ12月になる。クリスマスがやってくる。唐突にクリスマスプレゼントが欲しいと思った。別段、何か欲しいものがあるわけではない。ただ、クリスマスプレゼントという名前の、何かが欲しい。

 

 最後に彼女と愛を交わしてから数年になる。昔の女に思いを馳せていたら、ふと、今すぐに恋愛を衝動に駆られた。今、特に意中の女がいるわけでもなんでもない。ただ、恋愛という名前の、何かがしたくなっただけだ。

 

 人は、ふとした瞬間に、得体も知らぬ何かを、喉から手が出るほど欲しがる。

 

 人はそれを、概念渇望症と呼ぶ。現代でも治療法が見つかっていない、恐ろしい病の名称だ。

 

おわり。